1965年12月、左派統一候補として大統領選挙に挑み、ド・ゴールと対決して結果的には敗れたが、決選投票において1061万9735票(44.80パーセント)を獲得した。1971年社会党第一書記に選出される。その後、ド・ゴールの後を継いだジョルジュ・ポンピドゥー大統領の任期半ばの急死を受けて実施された1974年フランス大統領選挙でも再び決選投票に持ち込み、1297万1604票 (49.19パーセント) を得たものの、1339万6203票(50.81パーセント)を得たヴァレリー・ジスカール・デスタンに僅差で惜敗する。 1981年フランス大統領選挙ではジスカール・デスタンと再び争い、1570万8262票 (51.76パーセント) を得て勝利して大統領に就任した。共産党との連立でピエール・モーロワ内閣を成立させ、有給休暇の拡大・法定労働時間の削減・ラジオおよびテレビの自由化・大学入試の廃止・死刑制度の公式廃止を行うとともに私企業の国有化・社会保障費の拡大をはじめとする社会主義的政策を取った。このためギー・ド・ロチルドとベルナール・アルノーら多くの企業家たちがフランスを出国する事態となった。 しかし翌1982年にはインフレの進行と失業者の増加に直面した(ミッテラン・ショック)。賃金を凍結して公共支出を削減するなど緊縮財政を取り、さらに首相もローラン・ファビウスに替えた。自由主義的政策に転回することになり、1984年には共産党が連立から離脱した。 1986年フランス議会総選挙では社会党が大敗を喫し、右派政治家のジャック・シラクが首相に選出されて保守派内閣が誕生し、第1次コアビタシオン(保革共存)が成立する。しかし1988年フランス大統領選挙では54パーセントの得票率でシラクを下し、大統領再選を果たした。続く総選挙で社会党が勝利し、同年5月にミシェル・ロカールを首相に指名した。1991年5月、エディット・クレッソンを首相に抜擢し、フランス史上初の女性首相が誕生した。1993年フランス議会総選挙で再び右派が勝利を収め、同年3月にエドゥアール・バラデュール内閣が発足して第2次コアビタシオンが成立した。大統領在任中の1993年2月に1887年10月から1954年7月まで植民地として支配したベトナムと和解した[1]。 なお、1993年から1994年にかけてピエール・ベレゴヴォワ元首相や長年金庫番を務めていたプログスなど複数の側近が「自殺」したことから、不祥事の揉み消しを意図したミッテランの指示による殺人ではないかという疑いがマスメディアにおいて高まった。 ミッテランはドイツのヘルムート・コール首相と共に、欧州経済共同体と欧州原子力共同体を発展的に進化させて、欧州連合とユーロの創設を主導した。欧州経済共同体設立条約と欧州原子力共同体設立条約を定めた1957年3月のローマ条約をヨーロッパを統合して欧州連合を創設するために発展的に改変し、1986年2月、単一欧州議定書を採択して1987年7月に発効させ、1992年2月にはマーストリヒト条約を採択・署名し、1993年11月に発効させた。 1985年6月に加盟国間で国境検査無しで国境を越えて移動できるシェンゲン協定を採択し、2022年時点では加盟国は26か国に拡大している。 1990年7月、欧州通貨統合の第1段階として、欧州経済共同体の加盟国間では投資の自由化がなされ、1994年1月に欧州通貨統合の第2段階として、欧州中央銀行の前身の欧州通貨機構が設立され、加盟国の財政状況を審査を開始した。ミッテランが大統領を退任してから7月後の1995年12月に欧州理事会において欧州統合通貨の名称は「ユーロ」に決定され、1998年12月にユーロは国際決済通貨として導入された。 1995年5月、2期14年の任期を終えて退任した。翌年1996年1月8日、前立腺癌により、アンヌ親子に見守られてパリの自宅で死去した。ミッテランの主治医だったクロード・ガブラー
大統領就任
ヨーロッパ連合とユーロの創設
死去
1944年10月にレジスタンスの同志であったダニエルと結婚し、三男をもうける。また1974年12月に30年来の付き合いのあったアンヌ・パンジョとの間に隠し子のマザリーヌ
をもうけている。葬儀には自分の棺に最も近い席にマザリーヌとアンヌを座らせることを遺言で指示していた。