フランソワ・ノエル・バブーフ(Francois Noel Babeuf, 1760年11月23日 ? 1797年5月27日)は、フランスの革命家、思想家である。通称グラキュース・バブーフ(Gracchus Babeuf)。平等社会の実現を目指して私有財産制を否定し、いわゆる「バブーフの陰謀」を企てたが、失敗して処刑された。「共産主義」や「独裁」という用語を現代の意味で初めて使用した人物の一人であり、革命は少数の革命家による権力奪取と革命独裁によってのみ実現可能と主張して後の共産主義思想に大きな影響を与え、「共産主義の先駆」とも呼ばれる[1]。 バブーフは1760年11月23日(12月24日説あり)、フランス北部・ピカルディーのサン=カンタン(Saint-Quentin)において、貧しい農家の長男として生まれた。 父クロード(Claude Babeuf)はフランス軍の騎兵隊に所属していたが、1738年に上官に反抗して脱走、以後ヨーロッパ各国を放浪。オーストリアでマリア・テレジアの軍隊に所属し、皇太子時代のヨーゼフ2世の教育係を勤めたこともあった。恩赦によって帰国を果たしたのち、塩税を徴収する役人として働いたが、反抗的な気性のため失業。その後も定職に就くことができず、貧困に喘いだ。この不安定な生活は、結婚後も変わることなく続いた。 家計を支えるため、バブーフは14歳から働くことになり、17歳の頃、土地台帳管理の職を得る(字が巧かったため、村の書記をした時期もあった)。貧困のため正規の教育を受けることもままならず、父にフランス語、ドイツ語、ラテン語の読み書きや数学を教わりつつ、独学で知識を吸収した。大変な読書家であったらしく、広範囲の分野にわたって関心を示したという。 1780年、父クロードが死去。その2年後にはアンヌ・ヴィクトワール・ラングレーと結婚し、彼女との間に3人の子(長男ロベール、次男カミーユ、三男カイユス)を儲ける(長男はのちにバブーフによって、ルソーの著書にあやかり「エミール」と改名)。家計は更に苦しくなり、一家の生活は彼の双肩に懸かった。 1784年、故郷に程近いロア(Rore)の地で、バブーフは土地台帳管理人として自立した。この仕事を通じて彼は、領主権の不正を目の当たりにして土地私有制の弊害を痛感。同時にルソーやアベ・マブリー、モレリーなどの啓蒙思想家の著作に接して革命思想に傾倒した。1785年にアラスのアカデミーの通信会員となり、1788年まで、常任幹事のデュポワ・ド・フォスーと書簡を交わした。彼の思想の核は、これらの経験により形成された。 1789年、『永久土地台帳(Cadastre perpetuel)』をパリで上梓。農地均分と税制改革を説いた。 1789年7月14日、パリ市民らがバスティーユを襲撃。フランス革命が勃発した。『永久土地台帳』出版のためパリに赴いていたバブーフは、革命の実態をつぶさに観察。むき出しになった市民の暴力性に不穏な臭いを嗅ぎ取るが、時代の激動を直感した彼は、すぐさま行動を開始。同年8月4日に土地台帳管理人の職を棄てた。10月に帰郷した彼は革命運動に参加、以後繰り返し逮捕・拘禁される。まず補助税や塩税に反対して逮捕。領主権や高率の酒税に反対して再び逮捕された。 1792年8月にはソンム県の行政官に選出された。しかし1793年1月、国有財産の競売に関する文書偽造事件(バブーフの過失によるものとみられる)で、政敵であったロア町長ロングカンの告発を受けて免職された。この時行われた欠席裁判で下った20年の鉄鎖刑から逃れるため、バブーフはパリに向かい、パリ食糧委員会に書記官の職を得た。 バブーフはロベスピエールの信奉者であったが、この頃の彼は、紛糾する国内世論を無理にまとめるために恐怖政治と化したロベスピエールの施策が「1793年憲法(ジャコバン憲法)」を侵害するものと考え、エベール派に加担。テルミドールのクーデターでは反ロベスピエールの側を擁護し、1793年憲法の実現を主張した。しかし、次第にテルミドール体制を危険視するようになり、ロベスピエールを再評価するに至った。 1794年9月3日、バブーフは『出版自由新聞(Le Journal de la liberte de la presse)』(同年10月5日に『人民の護民官(Le Tribun du peuple)』と改称)を発刊、同時に古代ローマの護民官・グラックス兄弟の名を取って「グラキュース・バブーフ(Gracchus Babeuf)」と自称した。 グラックス兄弟は、公有地の占有面積を制限するリキニウス・セクスティウス法の復活を主張して殺害された人物であった。
生涯
若年期
革命
『人民の護民官』
Size:97 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef