ナポレオン敗北後、フランスはブルボン朝のルイ18世が即位して王政復古したが絶対王政ではなく、王の権力が憲法に制約された外見的立憲君主制となった。しかしこの政権の実権を握った亡命貴族たちは極端な保守反動政治を行い、反発した自由派によって1830年に七月革命が勃発してシャルル10世が追放され、代わってルイ=フィリップが即位し七月王政が始まった[31]。七月王政はブルジョワ層を中心とした政権だったが政情は安定せず、1848年に勃発した2月革命によって王政は崩壊し、第二共和政が成立した。第二共和政は男子普通選挙を導入したものの政情を安定させることはできず、ルイ・ナポレオン大統領は1851年12月2日のクーデターを起こして実権を握り、1852年12月2日にはナポレオン3世として即位し第二帝政を開いた[32]。ナポレオン3世は政治を安定させるとともに産業革命を急速に進展させ、経済を大きく成長させた[33]。また、この時期にはアロー戦争やコーチシナ戦争(英語版)、メキシコ出兵などのように積極的な海外出兵を行い、広大な植民地を獲得したものの、対プロイセン政策を誤り、1870年の普仏戦争に敗北してルイ・ナポレオンは退位した[34]。1871年にはプロイセンにアルザス・ロレーヌを割譲することで和議が成立し、パリで蜂起していたパリ・コミューンも鎮圧されて、第三共和政が打ち立てられた[35]。
第三共和政は当初は安定しなかったものの、1880年代に入ると穏健共和派の指導の下で政情が安定し、繁栄の時代に入った。ただし国内ではその後も1889年のブーランジェ将軍事件や1894年のドレフュス事件といった政治事件が相次いで起こっていた。普仏戦争による国家の威信の減退を補うため第三共和政政府は積極的な海外進出を行い[36]、アフリカ分割にも積極的に参加して植民地をさらに拡大させた。文化的にはベル・エポックと呼ばれる華やかな時代を迎え、芸術家が集まるパリでは印象派などの芸術運動が花開いた[37]。
二度の世界大戦と植民地戦争シャルル・ド・ゴール
フランスは第一次世界大戦と第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦ではドイツ帝国を中心とする中央同盟国と戦い、140万人が犠牲となった[38]。西部戦線はフランス東部で4年にわたり膠着し、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの戦死者を出した。
1939年9月に始まった第二次世界大戦では、1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻に敗北して第三共和政は崩壊し、第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタンを国家元首とするヴィシー政権が成立した。フランス本国はドイツによって北部、のちに全土が占領された[39]。一方でシャルル・ド・ゴール率いる自由フランスは連合国につき、連合国軍による北仏ノルマンディー上陸作戦の成功により、1944年にフランス共和国臨時政府が帰還して全土を奪還した。
戦後、1946年にフランス第四共和政が成立した。フランスは冷戦構造のなかで自由主義陣営(西側)に属し、北大西洋条約機構(NATO)の原加盟国となる一方、1951年に欧州石炭鉄鋼共同体を西ドイツやイタリア、ベネルクス三国と結成。1957年には欧州経済共同体が発足するなど欧州統合に参加した。一方で植民地帝国は崩壊しつつあった。インドシナの支配権を回復するため臨んだ第一次インドシナ戦争では、1954年にディエンビエンフーの戦いでベトミンに大敗を喫し、同年7月にはジュネーヴ協定によってインドシナからの撤退を余儀なくされた。さらにアルジェリア戦争が泥沼化し、アルジェリア植民地の維持の是非と、植民者の帰還[40]をめぐって国論が割れ、内戦になりかけた。これを収拾するため、1958年、ド・ゴールが首相に就任し、1959年には強力な大統領権限を含んだ第五共和政が成立した[41]。
第五共和政の初代大統領となったド・ゴールは、国内の統一を維持しながら戦争終結へ踏み出した。1958年10月2日のギニア独立を嚆矢として、「アフリカの年」と呼ばれた1960年にほぼ全てのアフリカ植民地が独立した。1962年にアルジェリア戦争の和平交渉を妥結し、アルジェリアは独立した[42]。外交面では、ド・ゴールはヨーロッパの自主性を主張してアメリカと距離を置いた独自路線をとった。その米ソと並ぶ第三極を目指した政治姿勢はド・ゴール主義と呼ばれ、核兵器保有もその一環である。1960年にはトゥアレグが居住するサハラ砂漠で核実験を強行した。1966年、フランスは北大西洋条約機構(NATO)を正式脱退した[43]。2009年、フランスはNATOに再加盟し[7][8][9]、NATO全体では英語とフランス語が公用語となっている[3][4][44]。
2022年フランス大統領選挙ではエマニュエル・マクロンが大統領に再選された[45]。