フランス
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またヴェルサイユ宮殿を建設するなど王の権威は非常に高まったものの、対外戦争では必ずしも成果を上げることができず、また1685年フォンテーヌブローの勅令によってナントの勅令を廃止したため、産業の中核を担っていたユグノーが海外へと移民して経済の停滞を招いた[22]。またこの時期、フランスはヨーロッパ外への進出を盛んに行い、アメリカ大陸アフリカアジアに広大な海外領土を獲得してフランス植民地帝国を形成することとなった[23]

1715年に即位したルイ15世の統治下では啓蒙思想が発展し、1748年にはシャルル・ド・モンテスキューが『法の精神』を発表、1751年からは『百科全書』の刊行が始まり、1762年にはジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』を発表した。一方で1756年からの七年戦争でフランスは孤立し、1763年パリ条約で多くの植民地を失い、また経済の不振や財政危機、啓蒙思想の普及によって旧来のアンシャン・レジームは動揺を始め、1774年に即位したルイ16世の時代に社会の緊張は頂点に達した[24]
共和制と帝政フランス人権宣言アルプスを越えるナポレオン』ジャック=ルイ・ダヴィッド

1789年フランス革命が勃発し、三部会に代わって形成された憲法制定国民議会封建制の廃止や人間と市民の権利の宣言フランス人権宣言)の採択など重要な決定を行った。特に人権宣言は、自由平等国民主権など近代民主社会の基本原則を確立した[25]。しかし革命は急進化していき、1793年には国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となった[26]

1794年7月に起きたテルミドール9日のクーデターによって、恐怖政治の中心であったマクシミリアン・ロベスピエールを中心とする山岳派の主立ったメンバーが逮捕・処刑されたものの、総裁政府の統治は安定せず、1799年ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握り、第1統領となった[27]1804年にはナポレオンは皇帝に即位して第一帝政を開き、ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパを圧倒し、この戦争で数百万人が犠牲となった[28]。一方でナポレオン法典の発布に見られるように、ナポレオンはフランス革命の成果を継承する姿勢を明確に示した[29]。しかしこうしたナポレオンの覇権は1812年ロシア戦役の失敗によって水泡に帰し、蜂起した諸国軍によって1814年にパリが陥落、ナポレオンはエルバ島に流された。1815年、エルバ島から脱出したナポレオンが一時フランスに復帰したものの、ワーテルローの戦いに敗れナポレオン時代は終わった[30]

ナポレオン敗北後、フランスはブルボン朝のルイ18世が即位して王政復古したが絶対王政ではなく、王の権力が憲法に制約された外見的立憲君主制となった。しかしこの政権の実権を握った亡命貴族たちは極端な保守反動政治を行い、反発した自由派によって1830年七月革命が勃発してシャルル10世が追放され、代わってルイ=フィリップが即位し七月王政が始まった[31]。七月王政はブルジョワ層を中心とした政権だったが政情は安定せず、1848年に勃発した2月革命によって王政は崩壊し、第二共和政が成立した。第二共和政は男子普通選挙を導入したものの政情を安定させることはできず、ルイ・ナポレオン大統領は1851年12月2日のクーデターを起こして実権を握り、1852年12月2日にはナポレオン3世として即位し第二帝政を開いた[32]。ナポレオン3世は政治を安定させるとともに産業革命を急速に進展させ、経済を大きく成長させた[33]。また、この時期にはアロー戦争やコーチシナ戦争(英語版)、メキシコ出兵などのように積極的な海外出兵を行い、広大な植民地を獲得したものの、対プロイセン政策を誤り、1870年普仏戦争に敗北してルイ・ナポレオンは退位した[34]1871年にはプロイセンにアルザス・ロレーヌを割譲することで和議が成立し、パリで蜂起していたパリ・コミューンも鎮圧されて、第三共和政が打ち立てられた[35]

第三共和政は当初は安定しなかったものの、1880年代に入ると穏健共和派の指導の下で政情が安定し、繁栄の時代に入った。ただし国内ではその後も1889年ブーランジェ将軍事件1894年ドレフュス事件といった政治事件が相次いで起こっていた。普仏戦争による国家の威信の減退を補うため第三共和政政府は積極的な海外進出を行い[36]アフリカ分割にも積極的に参加して植民地をさらに拡大させた。文化的にはベル・エポックと呼ばれる華やかな時代を迎え、芸術家が集まるパリでは印象派などの芸術運動が花開いた[37]
二度の世界大戦と植民地戦争シャルル・ド・ゴール

フランスは第一次世界大戦第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦ではドイツ帝国を中心とする中央同盟国と戦い、140万人が犠牲となった[38]西部戦線はフランス東部で4年にわたり膠着し、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの戦死者を出した。

1939年9月に始まった第二次世界大戦では、1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻に敗北して第三共和政は崩壊し、第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン国家元首とするヴィシー政権が成立した。フランス本国はドイツによって北部、のちに全土が占領された[39]。一方でシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス連合国につき、連合国軍による北仏ノルマンディー上陸作戦の成功により、1944年にフランス共和国臨時政府が帰還して全土を奪還した。


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