フランス
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その子であるルイ11世は国内統治の充実を図るとともにブルゴーニュ戦争で有力諸侯であったブルゴーニュ公の領国を崩壊させ、充実した国力の元でその子であるシャルル8世は1494年にイタリア戦争を起こした[18]
絶対王政「太陽王」ルイ14世

16世紀前半のフランスは、ハプスブルク家との抗争を繰り返しながら中央集権化を進め[19]、また1534年からはジャック・カルティエアメリカ大陸に向かいセントローレンス川流域を探検するなど対外進出の動きも見られたが[20]宗教改革の影響でユグノーカルヴァン派)が増加し、新旧両教の対立から1562年ユグノー戦争が勃発し、30年以上も続いた。1589年にはヴァロワ朝が断絶し、アンリ4世が即位してブルボン朝が成立した。アンリ4世はカトリックに改宗し、1598年、ナントの勅令を発して内戦に終止符を打った[21]。続くルイ13世の統治下では宰相リシュリューが中央集権化と王権の強化を推進し、次いで1643年に即位したルイ14世は幼少だったために宰相マザランが実権を握ったものの、マザランが1661年に死去すると親政を開始した。ルイ14世の統治下では絶対王政が確立され、財務総監ジャン=バティスト・コルベール重商主義的政策を推進して産業を振興。またヴェルサイユ宮殿を建設するなど王の権威は非常に高まったものの、対外戦争では必ずしも成果を上げることができず、また1685年フォンテーヌブローの勅令によってナントの勅令を廃止したため、産業の中核を担っていたユグノーが海外へと移民して経済の停滞を招いた[22]。またこの時期、フランスはヨーロッパ外への進出を盛んに行い、アメリカ大陸アフリカアジアに広大な海外領土を獲得してフランス植民地帝国を形成することとなった[23]

1715年に即位したルイ15世の統治下では啓蒙思想が発展し、1748年にはシャルル・ド・モンテスキューが『法の精神』を発表、1751年からは『百科全書』の刊行が始まり、1762年にはジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』を発表した。一方で1756年からの七年戦争でフランスは孤立し、1763年パリ条約で多くの植民地を失い、また経済の不振や財政危機、啓蒙思想の普及によって旧来のアンシャン・レジームは動揺を始め、1774年に即位したルイ16世の時代に社会の緊張は頂点に達した[24]
共和制と帝政フランス人権宣言アルプスを越えるナポレオン』ジャック=ルイ・ダヴィッド

1789年フランス革命が勃発し、三部会に代わって形成された憲法制定国民議会封建制の廃止や人間と市民の権利の宣言フランス人権宣言)の採択など重要な決定を行った。特に人権宣言は、自由平等国民主権など近代民主社会の基本原則を確立した[25]。しかし革命は急進化していき、1793年には国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となった[26]

1794年7月に起きたテルミドール9日のクーデターによって、恐怖政治の中心であったマクシミリアン・ロベスピエールを中心とする山岳派の主立ったメンバーが逮捕・処刑されたものの、総裁政府の統治は安定せず、1799年ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握り、第1統領となった[27]1804年にはナポレオンは皇帝に即位して第一帝政を開き、ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパを圧倒し、この戦争で数百万人が犠牲となった[28]。一方でナポレオン法典の発布に見られるように、ナポレオンはフランス革命の成果を継承する姿勢を明確に示した[29]。しかしこうしたナポレオンの覇権は1812年ロシア戦役の失敗によって水泡に帰し、蜂起した諸国軍によって1814年にパリが陥落、ナポレオンはエルバ島に流された。1815年、エルバ島から脱出したナポレオンが一時フランスに復帰したものの、ワーテルローの戦いに敗れナポレオン時代は終わった[30]

ナポレオン敗北後、フランスはブルボン朝のルイ18世が即位して王政復古したが絶対王政ではなく、王の権力が憲法に制約された外見的立憲君主制となった。しかしこの政権の実権を握った亡命貴族たちは極端な保守反動政治を行い、反発した自由派によって1830年七月革命が勃発してシャルル10世が追放され、代わってルイ=フィリップが即位し七月王政が始まった[31]。七月王政はブルジョワ層を中心とした政権だったが政情は安定せず、1848年に勃発した2月革命によって王政は崩壊し、第二共和政が成立した。第二共和政は男子普通選挙を導入したものの政情を安定させることはできず、ルイ・ナポレオン大統領は1851年12月2日のクーデターを起こして実権を握り、1852年12月2日にはナポレオン3世として即位し第二帝政を開いた[32]。ナポレオン3世は政治を安定させるとともに産業革命を急速に進展させ、経済を大きく成長させた[33]。また、この時期にはアロー戦争やコーチシナ戦争(英語版)、メキシコ出兵などのように積極的な海外出兵を行い、広大な植民地を獲得したものの、対プロイセン政策を誤り、1870年普仏戦争に敗北してルイ・ナポレオンは退位した[34]


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