フランス
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シャルルマーニュの没後、その子であるルイ1世が840年に没すると、フランク王国西フランク王国中フランク王国東フランク王国の3つに分裂し、このうち西フランク王国が現在のフランスの基礎となった[10]。また、この時期に古フランス語の形成が始まった。

987年、西フランク王国の王統が断絶し、パリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選出されてカペー朝が成立した[11]。カペー朝の王権は当初非常に弱体で、パリを中心とするわずかな領土を直接支配するのにすぎなかったが、1180年にフィリップ2世が即位すると国内の所領を次々と獲得して王領を拡大し、1223年に彼が退位するころにはフランスはヨーロッパの大国の一つとなっていた[12]

1209年アルビジョア十字軍が開始され、キリスト教における異端とされたオクシタニア(現・南フランス)のカタリ派を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた[13]。また12世紀にはフランス全土で「大開墾時代」と呼ばれるほどの農地拡大が起き、13世紀には人口が激増した[14]。カペー朝はその後も ルイ9世フィリップ4世といった有能な国王の下で勢力を拡大していったものの、1328年に王統が断絶してフィリップ6世が即位し、ヴァロワ朝が成立した[15]

しかしこの即位を巡ってカペー家の血を引いているイングランド国王エドワード3世との対立が深まり、1337年から、フランスはイングランドとの百年戦争1337年 - 1453年)を戦っている[16]。この戦争の後半にはフランスは一時国土の北半を奪われるまでになったものの、ジャンヌ・ダルクの活躍をきっかけとして攻勢に転じ、1453年にはシャルル7世のもとでカレーを除く全てのフランス領を奪回して勝利を収めた[17]。その子であるルイ11世は国内統治の充実を図るとともにブルゴーニュ戦争で有力諸侯であったブルゴーニュ公の領国を崩壊させ、充実した国力の元でその子であるシャルル8世は1494年にイタリア戦争を起こした[18]
絶対王政「太陽王」ルイ14世

16世紀前半のフランスは、ハプスブルク家との抗争を繰り返しながら中央集権化を進め[19]、また1534年からはジャック・カルティエアメリカ大陸に向かいセントローレンス川流域を探検するなど対外進出の動きも見られたが[20]宗教改革の影響でユグノーカルヴァン派)が増加し、新旧両教の対立から1562年ユグノー戦争が勃発し、30年以上も続いた。1589年にはヴァロワ朝が断絶し、アンリ4世が即位してブルボン朝が成立した。アンリ4世はカトリックに改宗し、1598年、ナントの勅令を発して内戦に終止符を打った[21]。続くルイ13世の統治下では宰相リシュリューが中央集権化と王権の強化を推進し、次いで1643年に即位したルイ14世は幼少だったために宰相マザランが実権を握ったものの、マザランが1661年に死去すると親政を開始した。ルイ14世の統治下では絶対王政が確立され、財務総監ジャン=バティスト・コルベール重商主義的政策を推進して産業を振興。またヴェルサイユ宮殿を建設するなど王の権威は非常に高まったものの、対外戦争では必ずしも成果を上げることができず、また1685年フォンテーヌブローの勅令によってナントの勅令を廃止したため、産業の中核を担っていたユグノーが海外へと移民して経済の停滞を招いた[22]。またこの時期、フランスはヨーロッパ外への進出を盛んに行い、アメリカ大陸アフリカアジアに広大な海外領土を獲得してフランス植民地帝国を形成することとなった[23]

1715年に即位したルイ15世の統治下では啓蒙思想が発展し、1748年にはシャルル・ド・モンテスキューが『法の精神』を発表、1751年からは『百科全書』の刊行が始まり、1762年にはジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』を発表した。一方で1756年からの七年戦争でフランスは孤立し、1763年パリ条約で多くの植民地を失い、また経済の不振や財政危機、啓蒙思想の普及によって旧来のアンシャン・レジームは動揺を始め、1774年に即位したルイ16世の時代に社会の緊張は頂点に達した[24]
共和制と帝政フランス人権宣言アルプスを越えるナポレオン』ジャック=ルイ・ダヴィッド

1789年フランス革命が勃発し、三部会に代わって形成された憲法制定国民議会封建制の廃止や人間と市民の権利の宣言フランス人権宣言)の採択など重要な決定を行った。特に人権宣言は、自由平等国民主権など近代民主社会の基本原則を確立した[25]。しかし革命は急進化していき、1793年には国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となった[26]

1794年7月に起きたテルミドール9日のクーデターによって、恐怖政治の中心であったマクシミリアン・ロベスピエールを中心とする山岳派の主立ったメンバーが逮捕・処刑されたものの、総裁政府の統治は安定せず、1799年ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握り、第1統領となった[27]


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