フランス2月革命
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6月にはパリの労働者が蜂起(六月蜂起)するが、多数の犠牲者を出して失敗し、以後、革命の鎮静化とともに反動が開始して、最終的にルイ・ナポレオン大統領に当選する。
発端1848年革命のヨーロッパ。

1845年から48年にかけて、ヨーロッパに貧農の主食となっていたジャガイモを枯らす病気、胴枯れ病が蔓延し、ヨーロッパ中に大飢饉が発生した。民衆の飢饉暴動が頻発し、ヨーロッパ各国で産業革命による貧困の拡大と飢餓の発生、食糧価格の高騰により深刻な社会不安が広がっていた。1846年以降、アイルランドでは壊滅的なジャガイモ飢饉へと発展し、政府の十分な対策もないまま100万人もの犠牲者を出した。同様の現象が各地で発生し、フランスではジャガイモの値段は4倍、小麦の値段が2倍になり、1847年のパンの値段は暴騰して市民生活を圧迫した。南ドイツのバーデン地方でも小麦価格は4倍に、黒パンの価格は2倍となった。また、ベルギーでは飢餓に加えて、チフスなどの疫病が蔓延、疫病はドイツにも拡大を見せ、1万人を越える職工、農民が命を落とした[4]

1848年1月、シチリアパレルモで暴動が起こり、両シチリア王国からの分離独立と憲法制定が要求され、これを第一波として革命がイタリア各地に波及した。この騒乱はシチリア・ブルボン家の国王フェルディナンド2世にシチリアの自治と憲法制定を受諾させ、革命が成就した。イタリア発の革命の余波はフランスへと到達した。南イタリアにおける地方的騒乱はドミノ倒し状に連鎖して「ゴールの雄鶏の鳴き声」とともに1848年革命と呼ばれる欧州動乱へと発展する[5]。詳細は「1848年革命」を参照
フランス二月革命
七月王政と改革宴会

1830年の七月革命の結果誕生したオルレアン王政では、選挙権の拡大が行われたものの納税額による制限選挙自体は維持され、選挙権をもたない労働者・農民層の不満が高まった。有権者資格は納税額300フランから200フランに引き下げられ、9万4000人から1.8倍増の16万8000人へと増加した。しかし、有権者の割合はフランス全人口3500万人の0.5%に過ぎなかった。フランスでは鉄道熱が過熱し、各地で路線が建設されるなど大規模な開発が進められたが、こうした産業の発展の恩恵を一般の国民は受けられずにいた。一部の富裕層に富が集中し、多数の国民が貧困に取り残されていった。しかし、議員の選挙は依然として数百人の投票によって決定され、贈収賄によって政治は左右され、フランス政治は特権階級による権力の独占という様相を濃くし、密室政治と利権政治へと堕落していた[6]。詳細は「七月王政」を参照

首相ギゾーは、選挙制の改革に関して反対の立場を取っていた。彼は「選挙権が欲しければ金持ちになりたまえ」と語り、国民の不満に対して目を向けなかった。フランスでは不満が高まっていた。こうした不満のはけ口として改革宴会(英語版) という集会が盛んに開催され、ある程度のガス抜きが行われていた。改革宴会とは、選挙権の拡大や労働者・農民の諸権利を要求する政治集会だが、宴会の名目で開催していたもので、共和派のルドリュ・ロラン(英語版)がリールで推進したものが有名であった。
革命の経緯ルイ=フィリップ1世(1842年撮影)

1848年2月21日、『ル・ナショナル』は政権批判を目的にシャンゼリゼ通りで改革宴会の開催を呼びかけ、パリの民衆と国民衛兵に参加を求めた。しかし、こうした改革宴会は反乱の呼びかけと見られており、議会が中止を申し渡したものの布告は人々に伝達せず、多くの群衆が集結した。

当日の22日は雨が降っていたが、労働者・農民からなる多数の男女が集まり始め、学生が合流して人数は急速に膨らみ、大規模なデモとなった。そして、人々は行進を開始、国民衛兵の制止を聞かずセーヌ川の橋を渡り、議会へと向かった。議会ではギゾー内閣に対する非難決議が提案されていたが、議会の外では怒る群衆とこれに対峙する軍との睨みあいとなっていた。政府が改革宴会に対して解散命令を出すと、猟騎兵が群衆に攻撃を開始し、群衆は「改革万歳」、「ギゾーを倒せ」との怒号とともに投石で対抗して市街各所にバリケードを築き始める。そこに銃声が轟き、二人の犠牲が出た。このときの犠牲者は二人とも女性で、人々の怒りは頂点に達した[7]

2月23日、国王ルイ・フィリップは、首相のフランソワ・ギゾーを罷免して事態の沈静化を図る一方、三万人の正規軍と国民衛兵に召集をかけた。ギゾー辞任に人々は歓喜し、国王の決断を国民は称えたが、国王が新首相に指名したルイ・マシュー・モレ(英語版)は保守派の人物であった。新内閣の組閣に批判的な民衆は依然としてデモを続け、24日には武装蜂起へと発展、軍との衝突で多数の死傷者が出た[8]

国王はアドルフ・ティエールに事態打開を求めた。このとき、ティエールは後にパリ・コミューン革命に際して実行することになる作戦案―パリを一時捨て叛徒に掌握するに任せ、時間を稼いで態勢を立て直して反転攻勢し、パリを再奪取する―を国王に提言した。しかし、国王はティエールの非情な解決策を拒み、退位を決意、ロンドンに亡命して王政が崩壊した。これが1848年のフランス革命(二月革命)である[9]。詳細は「ルイ・フィリップ」および「フランソワ・ギゾー」を参照
第二共和政詳細は「フランス第二共和政」を参照
臨時政府の成立フランス二月革命アルフォンス・ド・ラマルティーヌ

国王退位後、革命は新体制の樹立を必要とした。退位したルイ・フィリップは、新国王として指名した孫のパリ伯フィリップに王位を継承させることを望んでおり、摂政として母オルレアン公妃が補佐することを期待していた[9]

しかし、群衆の乱入で荒れる議会を制し、政局を掌握したラマルティーヌは王政を拒絶し、共和政を採用すべきと主張した[10]。彼は穏健な共和主義の信奉者であり、『ジロンド派の歴史』を執筆して名を馳せた文士で、ジロンド派の政治理念を継承して自由民主主義に基づく新国家の建設を志していた[11]。同日、ラマルティーヌが指導してオルレアン左派、ブルジョワ共和派、ジャコバン派など左派を結集して1848年の臨時政府(英語版)が組織された。

フランス革命の経験者であったデュポンドルールが首班となって、法相にユダヤ人弁護士のアドルフ・クレミューが就任、保守派のフランソワ・アラゴ、資本家のガルニエ・パジェス(英語版)、ジャコバン派のルドリュ・ロラン(英語版)、社会主義者のルイ・ブラン、機械工のアルベール・ルーブリエ(英語版)、『ル・ナショナル』(英語版)の編集者アルマン・マラスト(フランス語版)、『ラ・レフォルム』(英語版)の編集者フェルディナン・フロコン(英語版)らが臨時政府の閣僚となった[12]。ラマルティーヌは外相に就任し、かつてフランスの友好国であったポーランドの独立を求める声を黙殺、革命戦争を拒絶して平和協調路線を採用した。以降、ラマルティーヌは臨時政府の方針を矢継ぎ早に打ち出していく。

翌25日、臨時政府はラマルティーヌが中心となってパリ市庁舎にて共和制を宣言した。「フランス人民の名において!王政はいかなる形態のもとであろうと、フランスにおいては廃止される。共和政を宣告する」[13]。かくして、フランスは第二共和政に移行した。
国家理念と赤旗問題

しかし、臨時政府は共和政を樹立したものの不安定であった。ラマルティーヌは、新共和国の象徴として三色旗から赤旗の掲揚を求め失業や貧困といった窮迫する社会問題への対応を迫る左派、そして既得権を守りたい右派の両派からの攻勢を受けながら、誕生間もない共和政を守らなければならなかった[12]

殊に赤旗問題は国家理念に関わる重要な問題を提起した。

元来、赤旗は公正と友愛の表象である一方、階級闘争フランス革命戦争ジャコバン派恐怖政治という歴史的暗部を想起させるものであり、また急進的な革命の思想として当時急速に流布していた社会主義共産主義を志向する労働者階級の政治上の立場を示す旗印であった[14]


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