フランス革命
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高等法院[52]は、三部会[注 20]のみが課税の賛否を決める権利があると主張して、第三身分の広い範囲から支持を受けた[53]。ネッケルは三部会招集を条件として出し、国王は1789年5月1日に招集すると約束した[51]

これらの運動は宮廷内で冷遇されていた野党的貴族[注 21]とブルジョワジー以下が合流して宮廷貴族の本流に対して反抗したものだった[54]
三部会の招集ジャック・ネッケル

1788年7月25日パリ高等法院は採決を身分制で行うべきだと声明を出した。これでは第三身分が少数派になってしまうことになり、第三身分は高等法院を裏切り者として攻撃した[55]。高等法院は譲歩して12月5日に第三身分の代表者数の倍加を認め、第三身分と高等法院の決裂は回避された[56]。ネッケルは第三身分の倍加を主張し、ネッケル派の大臣も賛成した。国王と王妃も承認せざるを得なくなった。1789年1月24日に三部会の招集と選挙規則が公布された[56]。各地で選挙が行われて議員が選出され、1789年5月5日、ヴェルサイユに招集された[57]。第一身分(僧侶)が300人、第二身分(貴族)が270人、第三身分(平民)が600人で半分が法律家で、大部分がブルジョアジーだった[57]。国王は開会式で三部会を独立した権力機関ではなく、国王の命令の下に財政は赤字解消に努力するものとしか言わなかった[57]。三部会が始まると議決方法を身分ごとにするか、人数別採決にするかで紛糾し、1ヶ月の時間が過ぎていった[58]。また議員の俸給一人800リーブルも財政赤字で4ヶ月支払われなかった[58]
革命の開始

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国民議会の結成

第三身分は1789年6月18日に自分自身の名を国民議会と呼ぶことに決定した。国民議会の権限について議決を行い、国王には国民議会の決定にいかなる拒否権もないこと、国民議会を否定する行政権力は無いこと、国民議会の承認しない租税徴収は不法であること、いかなる新税も国民議会の承認無しには不法であることを決定した[58]。さらに、ブルジョアジーの破産を救うべく「国債の安全」の宣言も決議された[59]。絶対主義の王権は破産に直面すると公債を切り捨てて、国庫への債権者を踏みにじって危機を乗り越えてきた。これに歯止めをかける決議は、王権にとって致命的だった[59]

このような第三身分の動きに僧侶部会が影響を受け、多くの司祭と少数の司教が第三身分へ合流した[59]。貴族部会の大多数は第三身分の行動に反対した[59]。1789年6月20日に国王は国民議会の会場を兵士によって閉鎖するよう命令し、国民議会の集会を禁止し、国王が改めて三部会を招集するという命令を伝えた[60]
球戯場の誓いダヴィッドによる『球戯場の誓い』

国民議会の議長ジャン=シルヴァン・バイイはこれに抗議して隣接する球技場になだれこみ、国王の命令に反して決議を行った。「国民議会は憲法が制定され、それが堅固な土台の上に確立するまで決して解散しないことを誓う」ことが決められた。これがのちに「球戯場の誓い」と呼ばれるようになった[60]。6月23日に三部会が招集されたが、4000人の軍隊が出撃の準備を整えていた。国王ルイ16世は高級貴族と近衛兵に囲まれて議場に入場すると「国王の承認しない議案は一切無効である」と宣言した。そして身分別に議決を行うことを命令し、貴族の政治的特権と減免税特権は尊重し、維持すること、封建的特権は財産として尊重することなどを宣言した[60]。これによって国王と国民会議は全面的対決となった[60]。国王が退出すると三部会は解散の命令を受けた[61]
国民議会との対立

宮廷貴族は御前会議で三部会の解散、10億リーブルの強制借款とロレーヌをオーストリアに600万リーブルで売却することなどを決めた[62]。強制借款は特権身分に課税する代わりに、強制的に国民から金を借り上げようとする政策だった[63]。この場合、強制的に大金を政府に貸すことを強要されるのは、大商人、銀行家、金融業者、大工業家であった。このような借り上げでは返還の当てもなく、事実上の没収になってしまう[63]。ブルジョアジーを破産させる政策であり、三部会解散は国民議会の権力を否定し国王と貴族の絶対主義的権力を再確認する政策だった[62]。こうしたうわさがパリに流れると、ますます反抗的な気運が高まった[62]

7月11日に国王と宮廷貴族はネッケルとネッケル派の大臣を罷免した。代わって宮廷貴族の強硬派が大臣を固めた。ブローイ公爵(元帥)が総司令官兼陸軍大臣となり、ベルサイユ宮殿を野営地に変えて、パリで暴動が起こったときの戦略として、パリ全部を守ることは不可能であるから、株式取引所と国庫とバスチーユ、廃兵院を守るにとどめることが指示された。これはパリ市民との軍事衝突の際に国家財政の実権だけは確保するために必要な戦略であった[64]
バスティーユ監獄の占領詳細は「バスティーユ襲撃」を参照『バスティーユ襲撃』(“La Prise de la Bastille”) Jean-Pierre Louis Laurent Houel

国民議会は軍隊の撤退を要求したが、国王は外出と集会の禁止令を出した。オルレアン公爵の私邸パレ・ロワイヤルには王の布告を無視して大群衆が集まった。7月12日軍隊がパリに向けて出撃を始めた。パレ・ロワイヤルでは「武器を取れ、市民よ」という演説がされ、6000人の群衆が軍隊と衝突した[65]

すでに軍隊では給料支払いが遅れていて、近衛兵すら不満を口にし、将校の命令に従わなくなっていた。軍隊の中に王権に抵抗するための秘密クラブも作られた[62]。7月14日に再び軍隊が出動すると群衆がフランス衛兵と共に廃兵院に押しかけ、3万丁の小銃を奪ってバスティーユ要塞監獄に向かった[66]。群衆が占領したバスティーユに政治犯はいなかったが、要塞は大砲をのぞかせて周囲の脅威となっていたことと、武器弾薬庫を抱えていたので重要な戦略目標だった。国王の軍隊はパリ全体で敗北し、地方都市でも国王の軍隊は敗北し、各地方で軍隊の反乱が起こった。国王の側はこれ以上の軍事行動ができなくなった[66]

ブローイ元帥は反撃の機会をうかがうべきであると説いたが、すでに軍隊と共に移動する資金も食料もなかった。そこで国王は泣いて屈服した[67]。国王ルイ16世は譲歩することを決心し軍隊を引いて国民会議に出席し「朕は国民と共にある」と言い和解を宣言した[67]。軍事行動を指揮した宮廷貴族たちは群衆に処刑された。有力な宮廷貴族たちは逃亡し、国王だけが第三身分の捕虜同然の身としてフランスにとどまった[68]

この勝利で権力を握ったのは最上層のブルジョアで、経済活動で最強の力を持つ者だった。その中には貴族の資格や領地を持つ者も多かった。これらの上層ブルジョアジーたちは士気が乱れていた兵士たちに積極的に働きかけて買収して、ブルジョアジーの軍隊に仕立て上げていた。兵士の反乱は自然発生的に起こったのではなかった[69]


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