フランス革命
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1787年4月に財政はブリエンヌ伯爵[注 16]に任された。彼は終身年金の創設による借款を行い、続いて土地税の代わりに印紙税を提案した。印紙税は貴族よりブルジョワジーに対して負担が重い税だった[注 17]高等法院は印紙税の導入に反対した。ブリエンヌは国家破産に直面して4億2000万リーブルの公債増発を発表した。このときオルレアン公が、公債発行を不法だとして抗議し、国王と対立し、オルレアン公はパリから追放された。高等法院はこれに対して国王に抗議行動を起こした[50]。王権の側は高等法院を抑圧し、法服貴族から司法権を取り上げ、全権裁判所を新設した[50]。この措置は全国的な動揺をひきおこし、オルレアン公に代表される自由主義貴族の反対運動はブルジョアジーや下層市民も引き入れていった[50]。全国的な反対運動のために増税は成功せず、公債を買い入れる者もいなくなった。1788年8月の初めにブリエンヌは「国庫は空になるだろう」という報告を受けた[51]。8月16日にブリエンヌは、現金支払いは一部だけとして、その他を国庫証券で支払うと命令した[51]。この命令はブルジョアジーに恐慌状態を引き起こした[51]。ブリエンヌはさらにケース・デスコント (fr:Caisse d'escompte) [注 18]紙幣の強制流通を命じた。この結果パリでは紙幣と現金[注 19]の交換を求めて取り付け騒ぎが起こった。国庫には50万リーブルしか残らず、ブリエンヌは辞任させられた[52]。国王は平民の銀行家ネッケルを呼び戻して財務総督にするしかなかった。高等法院[53]は、三部会[注 20]のみが課税の賛否を決める権利があると主張して、第三身分の広い範囲から支持を受けた[54]。ネッケルは三部会招集を条件として出し、国王は1789年5月1日に招集すると約束した[52]

これらの運動は宮廷内で冷遇されていた野党的貴族[注 21]とブルジョワジー以下が合流して宮廷貴族の本流に対して反抗したものだった[55]
三部会の招集ジャック・ネッケル

1788年7月25日パリ高等法院は採決を身分制で行うべきだと声明を出した。これでは第三身分が少数派になってしまうことになり、第三身分は高等法院を裏切り者として攻撃した[56]。高等法院は譲歩して12月5日に第三身分の代表者数の倍加を認め、第三身分と高等法院の決裂は回避された[57]。ネッケルは第三身分の倍加を主張し、ネッケル派の大臣も賛成した。国王と王妃も承認せざるを得なくなった。1789年1月24日に三部会の招集と選挙規則が公布された[57]。各地で選挙が行われて議員が選出され、1789年5月5日、ヴェルサイユに招集された[58]。第一身分(僧侶)が300人、第二身分(貴族)が270人、第三身分(平民)が600人で半分が法律家で、大部分がブルジョアジーだった[58]。国王は開会式で三部会を独立した権力機関ではなく、国王の命令の下に財政は赤字解消に努力するものとしか言わなかった[58]。三部会が始まると議決方法を身分ごとにするか、人数別採決にするかで紛糾し、1ヶ月の時間が過ぎていった[59]。また議員の俸給一人800リーブルも財政赤字で4ヶ月支払われなかった[59]
革命の開始

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国民議会の結成

第三身分は1789年6月18日に自分自身の名を国民議会と呼ぶことに決定した。国民議会の権限について議決を行い、国王には国民議会の決定にいかなる拒否権もないこと、国民議会を否定する行政権力は無いこと、国民議会の承認しない租税徴収は不法であること、いかなる新税も国民議会の承認無しには不法であることを決定した[59]。さらに、ブルジョアジーの破産を救うべく「国債の安全」の宣言も決議された[60]。絶対主義の王権は破産に直面すると公債を切り捨てて、国庫への債権者を踏みにじって危機を乗り越えてきた。これに歯止めをかける決議は、王権にとって致命的だった[60]

このような第三身分の動きに僧侶部会が影響を受け、多くの司祭と少数の司教が第三身分へ合流した[60]。貴族部会の大多数は第三身分の行動に反対した[60]。1789年6月20日に国王は国民議会の会場を兵士によって閉鎖するよう命令し、国民議会の集会を禁止し、国王が改めて三部会を招集するという命令を伝えた[61]
球戯場の誓いダヴィッドによる『球戯場の誓い』

国民議会の議長ジャン=シルヴァン・バイイはこれに抗議して隣接する球技場になだれこみ、国王の命令に反して決議を行った。「国民議会は憲法が制定され、それが堅固な土台の上に確立するまで決して解散しないことを誓う」ことが決められた。これがのちに「球戯場の誓い」と呼ばれるようになった[61]。6月23日に三部会が招集されたが、4000人の軍隊が出撃の準備を整えていた。国王ルイ16世は高級貴族と近衛兵に囲まれて議場に入場すると「国王の承認しない議案は一切無効である」と宣言した。そして身分別に議決を行うことを命令し、貴族の政治的特権と減免税特権は尊重し、維持すること、封建的特権は財産として尊重することなどを宣言した[61]。これによって国王と国民会議は全面的対決となった[61]。国王が退出すると三部会は解散の命令を受けた[62]
国民議会との対立

宮廷貴族は御前会議で三部会の解散、10億リーブルの強制借款とロレーヌをオーストリアに600万リーブルで売却することなどを決めた[63]。強制借款は特権身分に課税する代わりに、強制的に国民から金を借り上げようとする政策だった[64]。この場合、強制的に大金を政府に貸すことを強要されるのは、大商人、銀行家、金融業者、大工業家であった。このような借り上げでは返還の当てもなく、事実上の没収になってしまう[64]。ブルジョアジーを破産させる政策であり、三部会解散は国民議会の権力を否定し国王と貴族の絶対主義的権力を再確認する政策だった[63]。こうしたうわさがパリに流れると、ますます反抗的な気運が高まった[63]

7月11日に国王と宮廷貴族はネッケルとネッケル派の大臣を罷免した。代わって宮廷貴族の強硬派が大臣を固めた。ブローイ公爵(元帥)が総司令官兼陸軍大臣となり、ベルサイユ宮殿を野営地に変えて、パリで暴動が起こったときの戦略として、パリ全部を守ることは不可能であるから、株式取引所と国庫とバスチーユ、廃兵院を守るにとどめることが指示された。これはパリ市民との軍事衝突の際に国家財政の実権だけは確保するために必要な戦略であった[65]


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