フランス革命
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ビセートルで医長を務める間にピネルは「精神病者の鎖からの解放」を行ったとされており、これがピネル神話を生んだと言われる[173][注 43]

ピネルは以前から革命的勢力(「ジロンド派憲法」の起草者だった二コラ・ド・コンドルセなど)と親交があり、彼は病院行政局と共に革命政府に接触し、「精神医療改革」の許可を得ている[175]。当時の責任者ジョルジュ・クートンを中心とする革命政府はピネルの主張を認め、精神病者の解放を自由に行わせた[175]

この頃は既に恐怖政治の真っ最中であり、革命政府は多くの密告者と監視網を使っていた[175]。反政府的な者が暴き出され、粛清されることは日常化していた[175]。言い換えれば、ピネルの「精神病者の解放」が達成された理由は、それが革命政府の方針と一致していたためだった[177]。高橋はこう述べている[170]。「ジャコバン派」の政策の目標は、「基本的人権」と「社会的平等」の実現であり、特に「抑圧された人々」の「基本的人権」を保障するための「解放闘争」の意味合いを強く持っていた。そして、すべての人民に「基本的人権」を平等に与えるためには手段を選ばないという「急進的平等主義」が政治信条となっていた。こうした「急進的平等主義」がそのまま「精神病者」にも適用され、「精神病者」の「基本的人権」の保障という形で、「鎖からの解放」が実現したものと考えられる。

逆に言えば、「ジャコバン派」の「過激な平等主義」がなければ、果たして精神病者の「鎖からの解放」が実現したであろうか、その点はかなり疑問である。社会の底辺にいる人々にも平等の「権利」を与える「解放闘争」の理念が、社会的に抑圧されていた「精神病者」の解放を目指すピネルの主張と合致したために、「革命政府」はピネルの「改革」を公認したものと思われる。

革命の「理性の祭典」と関連して、1795年にビセートル病院のピュサンと事務官たちは、宗教的支配を除去するため精神病患者たちへ命じて、宗教関連の彫像絵画を中庭に放り出させた[178]。しかし信心深い患者たちは恐怖や怒りで混乱し、神罰が下ると信じた[178]。そこでピュサンは「迷信を打破する」ために患者たちへ呼びかけて、宗教的な品々を粉砕させた[178]。患者たちの中でも一部のカトリック系キリスト教徒たちは怒って病室に引きこもったが、大部分の患者たちはそのような脱宗教化・世俗化を支持するようになった[178]。このような彼らの「改革」はさらにピネルの弟子エスキロール、その他G・フェリュスやG・P・ファルレなどによって継承され、1838年6月30日の「共和国法」に至った[171]

共和国法は、当時としては画期的な福祉法だった[171]。同法は精神病者に対し

公的介護の義務

入院制度

精神病による不利益から患者自身の人権を保護すること

等をも規定していた[179]。後に共和国法は他の国々から模範とされ、現代日本の「精神保健福祉法」にも大きく影響している[179][注 44]
明治維新との共通点

この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。
出典検索?: "フランス革命" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年12月)

歴史学者の小林良彰明治維新とフランス革命の構造が同じであると主張した。
フランス革命では領主の組織した権力は破壊され、商工業、金融業の上に立つ者が権力の指導権を握った。江戸時代は領主が権力を組織していたこと、明治維新以後、商工業、金融業の上に立つ者が権力を握ったということが確認される。この点でフランス革命と明治維新は基本的に同一の変化を引き起こした[182]

フランス革命も明治維新も市民革命である。「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」これが市民革命の定理である[182]

どちらも財政問題が基本的原因になった。フランスの宮廷貴族は巨額の国家資金を様々な名目で手に入れ、財政破綻を引き起こした。江戸幕府財政は大名をはじめとする領主が租税を負担せず、幕府財政資金から老中以下の幕府官僚が様々な名目で国家資金を引き出していた。これが幕府の金庫を空にした[183]

国庫が空になると大名や宮廷貴族などの特権階級に負担させるのではなく、商人に対する幕府御用金の増加やブルジョアジーからの強制借り入れで負担をかぶせた。その時江戸時代末期において、関ヶ原の戦い以来冷遇されていた薩長両藩と商人層の主流が結びつき、討幕派を援助しながら主導権を握っていった。フランスでも自由主義貴族とブルジョアジーが反乱を組織した[183]。権力の変化と財政問題の絡み合いが日仏両国で、明治維新とフランス革命が同じ変化を持つ変革であると規定できる[184]

誤訳のもたらした理論的混乱

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革命を強要される、ルイ16世。キュロットをはいている。皇帝時代のナポレオン。革命後なのでキュロットははいていない。

小林良彰は世界史を日本史に翻訳する過程で重要な語句について誤訳があると指摘[185]し、科学教育研究者の板倉聖宣も同様な意見を述べて、小林に賛成した[14]
フランスのビュルガー、ブルジョアは都市に住みながら貧民、下層民ではなく、戦士(武士階級)としての貴族でもないので「資産家」「中産階級」とすべきものである。単なる「市民」は誤訳である[186]

西洋中世のnobleと中世日本の武士は本質的に同じものである[15]。「貴族」は、平安時代の貴族よりも江戸時代の「武士」に近いものである[14]。西洋の領主・騎士階級を日本語に翻訳するときに「西洋の武士階級」と翻訳していれば、理論的混乱は少なくなったはずである[15][14]

明治維新を西洋では「明治レストレーション(王政復古)」と訳しているが、西洋でレストレーションとは打倒された旧政権が復活したことを指す。明治維新をレストレーションというなら打倒された徳川幕府が復活した意味になる。明治維新はそのような変化ではないから誤訳である。日本人は当時「御一新」と呼んでいた。これは「革命」として差し支えない。正しくは明治レボリューションとしたいところである[187]

ドイツ語の「ビュルガリッヒェ・レヴォルチオン」を「市民革命」としたのは誤訳で、正しくは「ブルジョア革命」と訳すべきである。これほど奇妙な訳語が使われ、しかも高校の教科書にまで書かれ周知の言葉になっているのは日本だけであり、世界の中でも珍しい。この言葉はドイツではそれなりに知られているが、フランスやイギリスでは一般的ではない[188]


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