フランス革命
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このころフランス軍は敗北を重ね[注 36]、食料品の高騰や買い占めが激しくなり、貧民の暴動が起こった[注 37]。これに乗じて過激派の各党派が最高価格制による物価の抑制、買い占め禁止法、買占め人の処刑などの非常手段を要求して、国民公会に圧力をかけた[148]。1793年7月10日に公安委員会が改選され、平原派が後退した。7月27日にマクシミリアン・ロベスピエールが公安委員会に迎えられた[149]。内外の情勢はさらに絶望的になり、9月5日に過激派の中の最大勢力のエベール派が群衆を動員して国民公会を包囲した(9月5日の行進)。過激派は「反革命容疑者の逮捕」「食料調達のための革命軍の編成」を要求した[149]。このときは平原派は発言せず山岳派が議論を闘わせたが、ロベスピエールを初めとして山岳派は群衆に屈して国民公会と公安委員会がその政策を実施させられた[150]
恐怖政治の実施

9月5日以降、貧民の圧力を背景にしたエベール派の圧力で、後に恐怖政治と呼ばれる政策が実行された。それまで大した仕事してこなかった革命裁判所[注 38]の人員が増強され、次々と反革命容疑者に死刑を宣告していった[152]。9月29日に最高価格制が布告された。生活必需品の品目を定め最高価格を決定した。この布告で群衆が商店に押しかけ商店は空になった。10月の末になるとパンがなくなり、パリ・コミューンはパンの配給切符を実施し、他の都市も真似をした。品不足と食糧不足が起こった[151][注 39]。10月4日に買い占め人を摘発するための法令が国民公会に提案され、買い占め人の家宅捜索と強制徴発を行い、即席裁判でギロチンにかけることが決まった。10月半ばにはさらに食糧不足が深刻になり「革命軍」を新しく編成し[注 40]、農村を回って食料を徴発し、家宅捜索を行い、違反者を処刑して回った。これによって一時的には都市の食糧不足を和らげた[154]

国民公会と公安委員会は群衆の圧力に応じて恐怖政治を進めたが、同時に群衆を扇動した過激派の弾圧も続けた。食糧危機が一段落し人心が収まったのと、戦争が勝利に転じたことを背景に、過激派指導者たちは消えていった[155]
恐怖政治の効果

パリには多くの外国人銀行家が集まっていたが、これらが排除された結果、無制限な投機行為が抑えられ、アシニアの買いたたきや食糧調達が改善され、経済危機の緩和に役立った[156]。革命政府の取った非常手段は、累進強制公債、金属貨幣の流通停止、アシニアの強制流通、証券取引の停止などだったが、これによって唯一の紙幣となったアシニアの価格が上昇に転じた。最高価格制と強制徴発、買い占め禁止、違反者の厳罰も効果があった。物価はこれを反映して安定し、下層民の生活は安定した[157]。足下を安定させた国民公会と公安委員会は全力挙げて反革命軍と外敵との戦闘に向かった[158]。またこの政策の結果、フランス軍では正規軍と義勇兵の区別がなくなり、貴族将校の後を平民将校が埋めた。彼らは能力もあり勇敢だったので兵士の信頼を集めた。暴利をむさぼった御用商人も粛正され軍隊の装備も良くなった。重工業がフル回転を始め武器弾薬が豊富に供給された[159]。この結果列強を敗走させ、1793年の末までに革命政府は内外の危機から解放された。これらの政策で打撃を受けた者は外国の貿易会社、貿易商人、これと結びついていたフランス商人だった。一方利益を受けた者はフランスの工業家だった。革命政府は工業の振興に努力をし、軍需工業とその関連部門に資金を投入した。これは商業を犠牲にした工業の育成となった[158]。また、このとき革命のスローガンが「自由・平等・友愛」に変わった[160]
ロベスピエールの孤立

1794年になるとフランスは危機を脱し、安心感が出てきた。こうした中でロベスピエールは、反革命容疑者の財産を没収して土地のない貧民に与えるための「ヴァントーズ法」を提案した[注 41]。ロベスピエールは反革命容疑者を裁くための人民委員会の設立を提案し、可決させ、反革命容疑者の逮捕に乗り出した[162]。最後に汚職議員、腐敗議員の逮捕・裁判の権限を行使することを認めよと国民公会に提案したが、国民公会の平原派議員と山岳派議員の大多数から反対された。当時の議員の大多数は何らかのやましいところがあったからであった[162]。また、ロベスピエールは独裁者であるという批判が、国民公会や保安委員会の多数派から投げつけられ、ロベスピエールは最後の1ヶ月は公安委員会に出席しなくなった[162]。ジャコバンクラブでロベスピエールは無力になったと打ち明けた[159]
テルミドールのクーデター7月28日のロベスピエール死刑執行をもって恐怖政治は終了した

ロベスピエール派の山岳派議員はわずか10人ほどで、他の山岳派議員はロベスピエール打倒に回った。ロベスピエールはジャコバンクラブから反対派を排除し、組織固めをした[163]。ロベスピエールの去った公安委員会は反革命容疑者の選別の厳格化をさせたり財産差し押さえを延期させた[163]。ロベスピエールは議会で演説したが、大多数の議員に支持されなかった[164]

ロベスピエールは7月27日(テルミドール9日のクーデター)にパリ・コミューンと同盟を結んだが、軍隊が集まらず、国民公会の軍隊に急襲されて逮捕された。7月28日、ロベスピエールら約100人が処刑された。1794年7月28日に国民公会の諸委員会の改選が行われ、8月25日に12の行政委員会に権力を分散した。この結果、平原派が力を持つようになりジロンド派の生き残りを復帰させた[165]。ロベスピエール死後も恐怖政治の継続を主張した山岳派は排除され、恐怖政治は全廃された。株式市場と商業取引所の再開、処刑された者の財産も返還された[注 42]。国債利子の支払い停止も撤回された。こうした政策によりブルジョアジーの財産は回復され、元通りの活動が再開された[166]。11月12日、国民公会はジャコバンクラブの閉鎖を決議した[167]。ちょうど「8月10日事件」以後の状態に戻り、ここでフランス革命は終わった[168]
総裁政府の成立

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出典検索?: "フランス革命" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年12月)

平原派とジロンド派の生き残りの国民公会は1795年8月22日に「共和暦3年憲法」を制定し、普通選挙から制限選挙に逆戻りした。議会は上院の元老院と下院の五百人会に分かれ、議会から5人の総裁が選出され、総裁が行政権を握った[168]。議院内閣制であったが、この制度ではブルジョアジーと大土地所有者の代表者が絶対的に有利であった[168]。1795年10月に総裁政府が成立した。

その後はナポレオン第一帝政(1804年)、ナポレオン失脚後の復古王政7月革命(1830年)と続き、宮廷貴族の勢力は最終的に排除された[169]


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