フランス革命
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議員は700人を超え、ジロンド派[注 29]約165人と平原派[注 30]約400人とモンタニヤール派(山岳派)[注 31]約150人の三大勢力に分かれた。ジャコバンクラブは議会外団体としてジロンド派と山岳派の両議員が含まれていたが、内紛によって山岳派だけの支持団体になった[130]。9月21日に王政の廃止と共和制の樹立を宣言した[131]。(フランス第一共和政

国民公会では国王の裁判が進み長い討論と一人一人の議員の指名点呼による評決を行い小差[注 32]でルイ16世の無条件死刑が決定された[133]。ルイ16世は1793年1月21日にギロチンにかけられた。「ルイ16世 (フランス王)#国王裁判」および「ルイ16世 (フランス王)#刑死と最後の言葉」も参照
敗戦とジロンド派の失脚

1793年3月になるとフランスは敗戦に転じ、ヨーロッパの強国から侵略された[134]。原因は御用商人の悪徳行為で軍隊の食糧事情と待遇が悪くなり、士気が低下し、義勇兵が減少したことと、初期の戦勝に気を良くしたフランス革命政府が次第に征服と膨張政策に傾き、一種の世界革命的なイデオロギーで正当化してフランスの敵が増えたことにあった[133]

アシニアの価値が下落し、物価高騰が起こり、貧民の暴動を誘発した。しかしこれを力で弾圧するとヨーロッパ列強との戦争に、献身的な民衆を動員することができない。物価高騰を止めるためにはアシニアの価値を維持し、増発されたアシニアを流通から引き上げねばならない。このための政策として貴金属売買の禁止、アシニアの強制流通、アシニアと競合する手形・株などの証券の取引禁止、累進強制公債(革命税)[注 33]などの政策が議論された[136]。累進強制公債には金持ちが反対し、ジロンド派はこれらの政策に抵抗したが、平原派はだいたい賛成した[137]。ジロンド派は食料品・嗜好品を中心とした貿易商人や問屋商人が多く、国家との取引でもうけるすべがないまま、巨額の革命税を取り立てられたため反乱を起こした[138]。平原派は工業家や軍需物資を扱う商人が多く、外国との戦争で国家の軍事注文を受けて莫大な儲けを得た資本家が背後にいた。彼らは一時的な犠牲[注 34]を払っても戦争に勝ってほしいと考えた[140]

ジロンド派は平原派の支持を失って、次第に山岳派に押されていき権力の座から後退していった[141]。ジロンド派は累進強制公債の採決に敗れると、徹底的な反抗を組織した。それに対して山岳派とジャコバンクラブが過激派と手を組み、5月31日と6月2日に武装したパリ市民が国民公会を包囲し、ジロンド派議員は逮捕された。1793年10月3日に21人のジロンド派議員が処刑され、10月16日には王妃マリー・アントワネットも処刑された[142]
山岳派政権マクシミリアン・ロベスピエール

1793年6月2日の事件で山岳派の政権が成立した。当時のフランスは大混乱にあり、政府の権力が及ばない地域もあれば、欧米列強の占領地もあれば、昔の領主がまだ政府以上の権勢を維持して違法な封建貢租の取り立てもあった[143]。このため政府は改めて「封建貢租徴収の禁止」の法令を出した[144]
三委員会の設置

国内の混乱に対処するため、政府は臨時行政会議と呼ばれる内閣を組織し、公安委員会がその内閣を監視指導した。保安委員会は公安委員会から独立した警察権力を発動した。公安委員会と保安委員会はジャコバンクラブを背景に持つ国民公会の山岳派議員が大多数を出した[145]。また平原派は財政委員会を担当し、個人や企業の契約に対して、国家の資金を支払うかどうかの決定権を持った[145]。こうして公安、保安、財政の三委員会の権力ができた[146][注 35]
過激派の台頭

このころフランス軍は敗北を重ね[注 36]、食料品の高騰や買い占めが激しくなり、貧民の暴動が起こった[注 37]。これに乗じて過激派の各党派が最高価格制による物価の抑制、買い占め禁止法、買占め人の処刑などの非常手段を要求して、国民公会に圧力をかけた[148]。1793年7月10日に公安委員会が改選され、平原派が後退した。7月27日にマクシミリアン・ロベスピエールが公安委員会に迎えられた[149]。内外の情勢はさらに絶望的になり、9月5日に過激派の中の最大勢力のエベール派が群衆を動員して国民公会を包囲した(9月5日の行進)。過激派は「反革命容疑者の逮捕」「食料調達のための革命軍の編成」を要求した[149]。このときは平原派は発言せず山岳派が議論を闘わせたが、ロベスピエールを初めとして山岳派は群衆に屈して国民公会と公安委員会がその政策を実施させられた[150]
恐怖政治の実施

9月5日以降、貧民の圧力を背景にしたエベール派の圧力で、後に恐怖政治と呼ばれる政策が実行された。それまで大した仕事してこなかった革命裁判所[注 38]の人員が増強され、次々と反革命容疑者に死刑を宣告していった[152]。9月29日に最高価格制が布告された。生活必需品の品目を定め最高価格を決定した。この布告で群衆が商店に押しかけ商店は空になった。10月の末になるとパンがなくなり、パリ・コミューンはパンの配給切符を実施し、他の都市も真似をした。品不足と食糧不足が起こった[151][注 39]。10月4日に買い占め人を摘発するための法令が国民公会に提案され、買い占め人の家宅捜索と強制徴発を行い、即席裁判でギロチンにかけることが決まった。10月半ばにはさらに食糧不足が深刻になり「革命軍」を新しく編成し[注 40]、農村を回って食料を徴発し、家宅捜索を行い、違反者を処刑して回った。これによって一時的には都市の食糧不足を和らげた[154]

国民公会と公安委員会は群衆の圧力に応じて恐怖政治を進めたが、同時に群衆を扇動した過激派の弾圧も続けた。食糧危機が一段落し人心が収まったのと、戦争が勝利に転じたことを背景に、過激派指導者たちは消えていった[155]
恐怖政治の効果

パリには多くの外国人銀行家が集まっていたが、これらが排除された結果、無制限な投機行為が抑えられ、アシニアの買いたたきや食糧調達が改善され、経済危機の緩和に役立った[156]。革命政府の取った非常手段は、累進強制公債、金属貨幣の流通停止、アシニアの強制流通、証券取引の停止などだったが、これによって唯一の紙幣となったアシニアの価格が上昇に転じた。最高価格制と強制徴発、買い占め禁止、違反者の厳罰も効果があった。物価はこれを反映して安定し、下層民の生活は安定した[157]。足下を安定させた国民公会と公安委員会は全力挙げて反革命軍と外敵との戦闘に向かった[158]。またこの政策の結果、フランス軍では正規軍と義勇兵の区別がなくなり、貴族将校の後を平民将校が埋めた。彼らは能力もあり勇敢だったので兵士の信頼を集めた。暴利をむさぼった御用商人も粛正され軍隊の装備も良くなった。重工業がフル回転を始め武器弾薬が豊富に供給された[159]。この結果列強を敗走させ、1793年の末までに革命政府は内外の危機から解放された。これらの政策で打撃を受けた者は外国の貿易会社、貿易商人、これと結びついていたフランス商人だった。一方利益を受けた者はフランスの工業家だった。革命政府は工業の振興に努力をし、軍需工業とその関連部門に資金を投入した。


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