フランス革命
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宮廷貴族から見ると国家財政を健全化するために無駄な出費を削ろうとする行為は、宮廷貴族の誰かの収入を削ることになり、その権利を取り上げることは悪政と見えた[25][注 8]。この場合国王個人や少数の改革派の意志は問題にならず、宮廷貴族の集団的な利益が問題となった[25]。このように宮廷貴族は当時のフランス最強の集団であり、革命無しにはこれらの宮廷貴族の特権を奪うことはできなかった[27]
法服貴族詳細は「法服貴族 (フランス)」を参照

宮廷貴族は行政と軍事の実権を握っていたが、司法権は法服貴族に明け渡していた。法服貴族の中心は各地の高等法院(パルルマン)であり、パリ高等法院が最も強力であった[28]。法律に相当するものは王の勅令として出され、これをパリ高等法院が登録することで効力が発生した[28]。しかし国王の命令はほとんどの場合絶対であり、ときどき高等法院が抵抗運動を起こして王の命令を拒否したり、修正したりすることに成功しただけであった[注 9]。そのため立法権は宮廷貴族を含めた王権に属していた[28]。法服貴族の官職は官職売買の制度によって買い取らなければならず、売買代金を王が手に入れた[28][注 10]。彼らのほとんどはブルジョアジーの上層から来た。司法官の職を買い入れると同時に領地も買い入れ、貴族の資格を買った[29]。法服貴族は宮廷貴族に比べると特権階級ではなく、領地の経営と官職収入で財産を作った。彼らは支配者の中の野党的存在であった[29]
自由主義貴族

宮廷貴族の中にはルイ・フィリップ2世(オルレアン公)ラファイエット侯爵など反体制派の一派がいた。彼らは宮廷内部の権力争奪戦で敗者になり、日陰の存在であった[30]。そのため進歩的な発言をするようになった。彼らの大多数は官職収入の比重が少なく、自分の領地からの収入の比重が多かった。このため王に頼るところが少なかったため、王に服従せず自由主義派になった[31]。彼らは宮廷貴族の反主流派だった[32]
ブルジョアジー

フランス絶対主義下では商業貴族と呼ばれた貴族の一団があった[31]。これらは商業や工業を経営して成功し、貴族に列せられた者たちでブルジョア貴族と呼べる者たちであった[31]。この商業貴族にはせいぜい減免税の特権しかなかったが、商人や工業家にとっては社会的な名誉であった。国王は商工業を振興するという建前から、王権の側はこれに対していろいろな政策をとった[31]。商業貴族は「貴族に列っせられた者」と呼ばれ貴族社会では成り上がり者と見なされた[31]。しかし貧乏な地方貴族よりは、はるかに経済力があった。これらの商業貴族の多くは地方行政の高級官僚となっていた[33]

ブルジョアジーには徴税人という一団も存在した。フランス王国では間接税の徴収を徴税請負人に任せた[34]。その徴税の仕方は極めて厳しかった[注 11]ので、小市民から大商人に至るまで恨みをかっていた[注 12]。徴税請負人は封建制度への寄生的性格の最も強い存在であった[35]。徴税請負人は工業、商業の経営や技術の進歩に大きな役割を果たしたものが多かったので、本来はブルジョアジーに属する[36]。しかし、王権の手先として商業そのものを抑圧する立場にもあった。そこで商人が徴税請負人を敵と見なすことが多かった[36]。徴税請負人は国家と直接契約することはできず、一人の貴族が代表して政府と契約した。貴族はその報酬として年金を受け取った。すべては貴族の名において行われ、徴税組合には貴族が寄生していた[37]

銀行家や商人、工業家たちは当時のフランスではブルジョアジーと呼ばれたが、上層ブルジョアジーに属する者には貴族に匹敵する個人財産を持つ者も現れた[37]。しかし彼らはいろいろな方法で宮廷貴族に利益の一部を吸い取られ、国王政府の食い物にされた[38][注 13]。ブルジョアジーは宮廷貴族の被支配者であった[38]
領主の土地支配

フランス絶対主義の時代には貴族や高級僧侶は領地のほとんどを持ち、経済的に強力な基礎を持っていた[39]。全国の土地が大小様々な領地に分かれていて、領地は直轄地と保有地に分けられ、直轄地は領主の城や館を取り巻いていた[39]。それ以外の土地は保有地として農民や商人、工業家、銀行家などに貸し与えた。それらの土地の保有者は領主に貢租[注 14]を支払った。その土地を売買するときは領主の許可が必要で、許可料を不動産売買税として支払わなければならなかった[41]。ブルジョアジーの中には農村に土地を保有して地主となった者もいたが、この場合も領主権に服し、貢租を領主に支払っていた[42]。農民で領主であった者は一人もいなかった[39]。農民やブルジョア地主は領主に貢租を支払いながら、国王には租税を払うという二重取りにあっていた[43]
身分制度

絶対主義下では、国民は3つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2,600万人いた。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。
フランス革命前夜
国家財政の悪化

ルイ14世の晩年以来フランスの国家財政は苦しくなり、立て直しの試みも成功せず、ルイ16世の時代になって財政は完全に行き詰まり[44]、1780年代時点の財政赤字は45億リーブル(2017年時点の日本円で54兆円相当[45])にまで膨張していた。しかしルイ16世が任命した蔵相たちは宮廷貴族に十分な課税をせず、国家の資金を惜しげも無く与えた[46]。財政困難が深刻になり宮廷が万策尽きた結果、国王はテュルゴーやジャック・ネッケル等の改革派を蔵相に任命せざるを得なくなった[注 15]。彼らは宮廷貴族などの特権身分に対して課税などの財政改革を進めようとしたが、宮廷貴族などの特権身分たちはこれに反対して、その改革を失敗させた[46]。宮廷貴族たちは宮廷の官職、軍隊の高級将校、将軍、元帥、行政上の高級官職を握っていた。彼らの圧力を受けて改革派大臣は追放されることが繰り返された[47]
ブリエンヌの弾圧と抵抗運動ルイ16世

1787年4月に財政はブリエンヌ伯爵[注 16]に任された。彼は終身年金の創設による借款を行い、続いて土地税の代わりに印紙税を提案した。


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