フランス革命
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絶対王政の期間では国王が権力を行使できない場合も多く、国王を立てて絶対的な権力を行使したのは、リシュリューやジュール・マザランなどの一群の大領主であった[12]。この時代に王権を動かしていた大領主の一団は宮廷貴族と呼ばれ、約4000家あった[11]。宮廷貴族の地位は家柄で決まっていて[注 2]、宮廷貴族の上層は家柄の力で高級官僚に若いころから任命された[13][注 3]

これらの西洋の領主騎士階級を日本語では通常「貴族」と呼んでいるが、実態は平安時代の「貴族(公家公卿)」よりも江戸時代の「武士大名旗本等)」に近いものであり[14]、「貴族」というよりは「西洋の武士階級」とすべきものである[15]。当時の宮廷貴族に要求される能力は、宮廷の作法、剣の操法、宮廷ダンスの技術、貴婦人の扱い方であり、学問とか、経済運営の能力は次元の低いものとみられていた[13]。宮廷貴族の大多数は大蔵大臣の仕事に向かない者が多かったため、有力宮廷貴族がパトロンとなって能力のある者を大蔵大臣として送り込み、その代わりに自分の要望通りの政治を行わせた[13]。これらの宮廷貴族がベルサイユに集まって、王の宮殿に出入りしていた[16]

宮廷貴族は収入を得るために高級官職を独占していた[17]。当時の官職収入は桁違いに大きく、正規の俸給よりも役得や職権乱用からあがる収入の方が多かった。これらの役得は当然の権利とされていた[18][注 4]。このため4000家の宮廷貴族はその大小の官職によって国家財政の大半を懐に入れていた[20]。これらの官職の中には無用な官職も多く、たとえば、王の部屋に仕える小姓の官職[注 5]だけに8万リーブル(約8億円)[注 6]が支払われていた。その高い俸給と副収入が貴族の収入となっていた[22]

また、国家予算の十分の一を占める年金支払いは、退職した兵士や将校にも支払われていたが、その年金額には大きな格差があり、退職した大臣や元帥といった宮廷貴族には巨額の年金が支払われた[23]。さらに王が個人的に使用できる秘密の予算もあり「赤帳簿」と呼ばれた。宮廷貴族は夫人を使って大臣、王妃、国王のところにいろいろな理由を付けて金を取りに行かせた[注 7]。これらは宮廷貴族による国庫略奪であった[24]

フランス革命は国庫の破綻を引き金にして引き起こされた。国庫の赤字を作り出したものはこのような宮廷貴族の国庫略奪であった。ところが、このような不合理な支出が当時の宮廷貴族にとっては正当な権利と思われていた[24]。その権力を守るために宮廷貴族たちは行政、軍事を含めた国家権力の上層部分を残らず押さえていた。宮廷貴族から見ると国家財政を健全化するために無駄な出費を削ろうとする行為は、宮廷貴族の誰かの収入を削ることになり、その権利を取り上げることは悪政と見えた[25][注 8]。この場合国王個人や少数の改革派の意志は問題にならず、宮廷貴族の集団的な利益が問題となった[25]。このように宮廷貴族は当時のフランス最強の集団であり、革命無しにはこれらの宮廷貴族の特権を奪うことはできなかった[27]
法服貴族詳細は「法服貴族 (フランス)」を参照

宮廷貴族は行政と軍事の実権を握っていたが、司法権は法服貴族に明け渡していた。法服貴族の中心は各地の高等法院(パルルマン)であり、パリ高等法院が最も強力であった[28]。法律に相当するものは王の勅令として出され、これをパリ高等法院が登録することで効力が発生した[28]。しかし国王の命令はほとんどの場合絶対であり、ときどき高等法院が抵抗運動を起こして王の命令を拒否したり、修正したりすることに成功しただけであった[注 9]。そのため立法権は宮廷貴族を含めた王権に属していた[28]。法服貴族の官職は官職売買の制度によって買い取らなければならず、売買代金を王が手に入れた[28][注 10]。彼らのほとんどはブルジョアジーの上層から来た。司法官の職を買い入れると同時に領地も買い入れ、貴族の資格を買った[29]。法服貴族は宮廷貴族に比べると特権階級ではなく、領地の経営と官職収入で財産を作った。彼らは支配者の中の野党的存在であった[29]
自由主義貴族

宮廷貴族の中にはルイ・フィリップ2世(オルレアン公)ラファイエット侯爵など反体制派の一派がいた。彼らは宮廷内部の権力争奪戦で敗者になり、日陰の存在であった[30]。そのため進歩的な発言をするようになった。彼らの大多数は官職収入の比重が少なく、自分の領地からの収入の比重が多かった。このため王に頼るところが少なかったため、王に服従せず自由主義派になった[31]。彼らは宮廷貴族の反主流派だった[32]
ブルジョアジー

フランス絶対主義下では商業貴族と呼ばれた貴族の一団があった[31]。これらは商業や工業を経営して成功し、貴族に列せられた者たちでブルジョア貴族と呼べる者たちであった[31]。この商業貴族にはせいぜい減免税の特権しかなかったが、商人や工業家にとっては社会的な名誉であった。国王は商工業を振興するという建前から、王権の側はこれに対していろいろな政策をとった[31]。商業貴族は「貴族に列っせられた者」と呼ばれ貴族社会では成り上がり者と見なされた[31]。しかし貧乏な地方貴族よりは、はるかに経済力があった。これらの商業貴族の多くは地方行政の高級官僚となっていた[33]

ブルジョアジーには徴税人という一団も存在した。フランス王国では間接税の徴収を徴税請負人に任せた[34]。その徴税の仕方は極めて厳しかった[注 11]ので、小市民から大商人に至るまで恨みをかっていた[注 12]。徴税請負人は封建制度への寄生的性格の最も強い存在であった[35]。徴税請負人は工業、商業の経営や技術の進歩に大きな役割を果たしたものが多かったので、本来はブルジョアジーに属する[36]。しかし、王権の手先として商業そのものを抑圧する立場にもあった。そこで商人が徴税請負人を敵と見なすことが多かった[36]。徴税請負人は国家と直接契約することはできず、一人の貴族が代表して政府と契約した。貴族はその報酬として年金を受け取った。すべては貴族の名において行われ、徴税組合には貴族が寄生していた[37]

銀行家や商人、工業家たちは当時のフランスではブルジョアジーと呼ばれたが、上層ブルジョアジーに属する者には貴族に匹敵する個人財産を持つ者も現れた[37]


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