フランス系
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上記の少数民族のリストは単純すぎ、また不完全である。フランスの主要な少数民族にはポルトガル系、スペイン系、イタリア系、アルメニア系、ギリシア系、ユダヤ系などが含まれるが、彼らはこの定義には挙げられていない。また「北アフリカ系」という一つの民族集団を想定することも単純過ぎる。ここにはモロッコ系、チュニジア系、アルジェリア系が含まれるし、恐らくそれ以上に重要なことに、ベルベル人とアラブ系(アラビア語話者)を共に含み、またムスリムとユダヤ教徒を共に含んでいる。

固有民族としての「フランス人」と、移民による少数民族を対立させるこのような定義は、多くのフランス市民にとって侮辱にあたり、またフランス共和国の精神に反する。また、この定義は一方で、巧妙に多数派としての固有民族を「民族的フランス人」と呼ぶことを避け、バスク人を少数民族に加えていることとあいまって、「固有」と「外来」民族の境界線をあいまいにしてもいる。

近年、社会的差別に関連する議論がますます重要になり、時にそれは民族問題、特にいわゆる「移民の第2世代」(移民の子供としてフランスで生まれたフランス国籍所有者)の問題とも絡み合っている。フランスは、20世紀を通じて、ヨーロッパ、アフリカ、アジアからの移民を多く受け入れており、さまざまな民族的出自を持つ少数民族がフランスの人口の大きな割合を占める。しかし、移民・移民子孫についての公的な統計値は今までほとんどなく、その実際数を把握することは難しい。 2004年に発表された研究では、1999年の国勢調査値を基に、1400万人以上の外国系の人々(移民、あるいは、少なくとも親か祖父母の一人が移民)がおり、そのうち約520万人ほどが南ヨーロッパ系(イタリア、スペイン、ポルトガル)、約300万人がマグレブ系であるとしている。[26]この値を基にすれば、フランス市民の23%は、少なくとも親か祖父母の一人に移民がいることになる。しかし、20世紀初頭から大規模に展開した移民全体を歴史的に把握する研究は、まだほとんど行われていない。

海外では、旧フランス植民地を中心に、さまざまな国でフランス語が用いられている。しかし、フランス語話者であることとフランス人であるということはまったく別の概念である。特にフランス語圏出身者であるということを、フランス市民権保持者であるということと混同してはならない。例えば、スイス・ロマンド地方に住むフランス語話者は、フランス出身ではなく、多くの場合カトリックでもなく(むしろフランスにおいて迫害されたユグノー教徒が多い)、自分達をフランス人とは見なしていない。あるいはセント・マーチン島の英語話者の人々はフランス国籍を有しているが、フランス語を話せない(しかし近隣のハイチ出身のフランス不法滞在者は、多少フランス語がしゃべれようとも外国人である)。そして、今ではほとんどのフランス人が母語としてフランス語を話すが、かつては他の言語を第一言語とする大規模集団がフランス国内に存在していた(ドイツ語系の方言を用いていたロレーヌ地方モゼル県アルザス地方など)。そして現在ヨーロッパ圏外に住むフランス系の人々の多くは他言語を母語とする(北アメリカでは英語南アメリカではスペイン語南アフリカではアフリカーンス語など)。

アメリカ国勢調査局やカナダ統計局では、国内の「フランス系」を定義するために、多項目にわたる質問票を用いてフランス系を自認する人々の自己定義を抽出しているが、これらの基準は統一的ではなく、ここから一つの民族集団を定義することは不可能なのである。
歴史詳細は「フランスの歴史」を参照

ここで用いる「フランス人」(フランク人に由来)という用語は、現代のフランス市民の概念とは異なる。

なお、「フランス市民」とはフランス革命の遺産である。フランス憲法の第一条に拠れば、フランス人であることはフランス市民であることであり、その出自、人種あるいは宗教は関係ない(sans distinction d'origine, de race ou de religion)。 フランスは、フランス語、そして互いに共存しようと望む意志( エルネスト・ルナンのいうところの「毎日の国民投票」plebiscite de tous les jours)のみによって人民が結団するという、合意に基づく国家を原理的に指向している。アメリカ合衆国のような多文化主義に基づく国々、あるいは逆に日本のような国民の同一性が高いと考えられている国々からみると、フランスのこのような考え方は「自己同一性の否認」と見なし得るだろう。同時にフランス国内でも、マグレブ系や西アフリカ系フランス市民に対する深刻な人種差別や、国内の異文化共同体の拡大への反発が、この「来る者拒まず」というフランス共和国の寛大な精神に暗い影を落としている。 2005年に貧困層の多くすむ「問題のある郊外」(les quartiers sensibles)で連続発生した暴動は、このような緊張の一例であるが、この事件に対する「民族的要求」という視点からの解釈はしばしば実状をゆがめているので注意が必要である。
ガリア人の歴史紀元前58年ごろのローマによる征服以前のガリア地方。
ガリア・ナルボネンシスはローマ人とギリシア人が居住したり、強い影響力を持っていた地域である。
アクィタニアはバスク人が強い影響力を持っていた。
ベルギカはゲルマン部族の影響下にあった。詳細は「ガリア」を参照

ローマ時代以前、ガリア全域(現在のフランス、ベルギーの全域とドイツ、スイス、北イタリアの一部を含む西ヨーロッパの領域)には、集合的にガリア人として知られる様々な部族が居住していた。彼らの祖先は紀元前7世紀頃に中央ヨーロッパからきたケルト人で、彼らは土着の人々(主にリグリア人)を支配した 。
ガリアは紀元前58年から51年ごろにユリウス・カエサル指揮下のローマ軍に征服され(ただし南西地域は一世紀ほど早く既に征服されていた)、ローマ帝国の版図に含まれることとなった。


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