フランス復古王政
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ルイ18世は「最高国家元首であり、陸海軍を指揮し、宣戦を布告し、講和条約、同盟条約および通商条約を締結し、すべての行政官職を任命し、法律の執行と国家の安全のため必要な規則および勅令を制定する」[8]ものとされた。ルイ18世は後継者のシャルル10世よりは自由主義的であり、中道派内閣を多く組閣した[9]

ルイ18世は1824年9月に死去し、王弟シャルル10世が後を継いだ。シャルル10世はルイ18世よりも保守的な統治形態をとり、涜聖法(英語版)を含む極端な反動立法で世論の反発を招いた。国王政府は七月勅令(英語版)で1830年の総選挙の結果を覆そうとしたが、勅令はいわばシャルル10世の企てた「クーデター」であり、これに対する革命を引き起こした。1830年8月2日、シャルル10世はパリから逃亡して孫のボルドー公爵アンリに譲位した。議会はこれを認めず、8月9日に当時の王国総代理官ルイ・フィリップ・ドルレアン王位につけ、七月王政の幕が開けた。
ルイ18世(1814年?1824年)
第一次王政復古(1814年)「ルイ18世 (フランス王)」も参照1814年8月29日、パリ市庁舎へ帰還するルイ18世「1814年4月24日のブルボン朝再興の寓意:倒れたフランスを起き上がらせるルイ18世」、ルイ=フィリップ・クレパン

1814年のルイ18世の復位は、ナポレオンの治世下の元外相タレーランが戦勝国に対してブルボン朝再興を唱え、これに協力したことによるところが大きかった[10]。戦勝国は君主候補についてまとまっておらず、イギリスとしてはブルボン家の者を希望しており、オーストリアとしてはナポレオンの皇子フランソワ・ボナパルトを頂くマリー=ルイーズの摂政政治を検討しており、ロシアとしてはオルレアン公爵ルイ・フィリップでも、かつてのナポレオン麾下の元帥で現スウェーデン王太子のジャン=バティスト・ベルナドットでもよいという状況であったからである。また、ナポレオンは国境を1792年当時の状態に戻した上で帝位にとどまることを1814年2月に打診されたが、これを拒否していた[10]。王政復古の可能性は流動的であったが、戦争に疲れて平和を求める世論や、パリ、ボルドーマルセイユリヨンにおけるブルボン家支持運動も手伝って、戦勝国も妥結した[11]

ルイ18世は、サン=トゥアン宣言(英語版)に従って[4]、成文・欽定憲法の1814年憲章を発布した。同憲章は世襲貴族議員・勅任議員で構成する貴族院と公選議員で構成する代議院からなる二院制議会の開設を約束したが、その役割は(租税を除き)協賛機関であり、法律の発議権・裁可権、大臣任免権は国王だけにあった[12]選挙人は大資産家の男子に制限され、人口のわずか1%にとどまった[12]。一方で革命期の法律・行政・経済上の諸改革の成果はそのまま残された。すなわち、法的な平等と市民的自由を保障したナポレオン法典[12]、農民への国有財産(英語版)の売却、新地方区画「(departement、デパルトマン)」の設置は新国王により覆されることはなかった。教会と国家の関係も1801年の協約(英語版)による規律が維持された。同憲章下の復古王政の実情はこのようなものであったが、同憲章の前文では、「朕の王権に基づく自由意思により」同憲章を「下賜し、欽定する」とうたわれていた[13]19世紀初頭に流行した漫画風の着色銅版画「欧州の幸福に与る王室と同盟軍」

王政復古当初の熱狂が去ると、ルイ18世は、フランス革命の成果に逆行する行為により、選挙権をもたない大多数の人々からの支持を急速に失った。すなわち、象徴的な行為としては、白色旗三色旗に取って代わり、名目上の国王ルイ17世の後継者としてルイ「18世」という呼称が用いられ、「フランス人の王 (fr:Roi des Francais) 」(1791年憲法下のルイ16世の称号)ではなく「フランスの王 (fr:Roi de France) 」という称号が用いられ、ルイ16世マリー・アントワネットの年忌が特別視されるなどした。目に見えて反発を生じたのは、没収地の奪還を狙うカトリック教会や元亡命貴族から国有財産取得者へ圧力がかけられたことであった[14]。その他ルイ18世に憎悪を抱く者は、軍人、非カトリック教徒、戦後不況と対英輸入により打撃を受けた労働者といった各層に存在した[2]
百日天下詳細は「百日天下」を参照

密偵の知らせを受けてこのような不満の噴出の状況をとらえたナポレオンは[2]、1815年3月20日、エルバ島からパリへ帰還した。ナポレオン街道(英語版)の途上、討伐隊は、国王に忠誠を誓ったはずのものも含めほとんどが元皇帝側に寝返った[15]。3月19日、ルイ18世はパリからヘントへの逃亡に追い込まれ[16][17]、ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れて再追放されるまで帰国できなかった。

ナポレオン人気は落ち込みつつあったものの、ルイ18世が不在の間、伝統的に王党派の強いヴァンデで小規模な暴動が鎮圧されたほかには、王政復古を支持する破壊活動はほとんどなかった[18]
第二次王政復古(1815年)諸体制に仕えるシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールが「変節漢」と揶揄されているルイ18世に対しボナパルト一族を公職追放するか否かを問う書簡(パリ、1815年7月18日)

タレーランは、ナポレオンの百日天下の警察相フーシェ[19][20]と同様に、ブルボン朝再興により権勢を回復した。第二次王政復古を機に南仏を中心に第二次白色テロ(英語版)が始まり、王政支持者はナポレオンの復権に協力した者に対する復讐に燃え、200人ないし300人が殺害、数千人が追放された。テロの実行者らは、当時の超王党派(ユルトラ)の指導者アルトワ伯爵(後のシャルル10世)のシンボルカラーである緑色の記章を身に着けていたことから、緑党 (fr:Verdets) と呼ばれた。当時の地方庁には暴力行為を防止する余力がなく、国王政府が官憲を派遣して治安を回復していた[21]

1815年11月20日に第二次パリ条約が調印され、第一次パリ条約より厳しい条件が課された。フランスは7億フランの賠償金の支払を課せられ、その国境を1790年当時のものに縮小された。ワーテルローの戦いの後、フランスは120万の外国兵に占領されたが、約20万の兵が1818年まで占領を継続するものとされ、フランスには賠償金に加えて占領軍の駐留経費負担の支払が課せられた[22][23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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