フランス共産党
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しかし、モスクワに亡命していたフランス共産党の指導者モーリス・トレーズは帰国するなりレジスタンスの武装解除を命じ、資本主義体制再建に協力することになる。また、フランス共和国臨時政府ド・ゴール政権では、トレーズが副首相として入閣した。

1945年の制憲議会選挙では126議席を獲得して、第一党となった。1946年の制憲議会選挙では第2党となったものの、11月10日に行われた第四共和政最初の議会選挙(fr:Elections legislatives francaises de novembre 1946)でも第一党となった。この時期に成立した政権のいずれにも閣僚を輩出している与党であり、この時期が、同党のピークといえるだろう。
第四共和政下

1947年5月、ポール・ラマディエ政権はゼネストをめぐって共産党の閣僚を罷免し、共産党は野党となった。1951年の議会選挙(fr)では第一党であったものの、社会党や急進党などの率いる「第三勢力」 (fr) が与党となった。1956年の選挙でも第一党の座を確保したが、1958年には引退していたド・ゴールが政権に復帰し、第五共和政が成立した。
第五共和政下

ド・ゴールの再登板後は低迷し、1958年の選挙では得票率こそ18.90%だったものの、わずかに10議席しか獲得できなかった。1962年の選挙(fr)では41議席を得た。

1967年の選挙(fr)では議席を倍増させるなど盛り返した。1968年五月革命においてフランス共産党は、影響下にある労組ナショナルセンターであるCGT(労働総同盟)を通じて労働者のストライキを組織したが、ダニエル・コーン=ベンディットらの急進的な学生運動を一貫して否定し、バリケードを構築しての衝突や街頭占拠を積極的に推し進めるアナーキストやトロツキストたちを「挑発者」として、激しく非難した。ド・ゴール大統領は総選挙を行って対抗し(fr)、事態を収拾した。共産党はわずかであったが得票率を減少させた。ジョルジュ・マルシェ

1972年には、フランス社会党と「共同政府綱領」に調印し、「左翼連合」を形成して政権をめざすが「政権獲得後の国有化の範囲の性急な拡大」を理由に、社会党から決裂されて1977年に「左翼連合」は崩壊した。

1978年には共産党員哲学者であったルイ・アルチュセールが『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』を刊行している。

1981年に社会党のミッテランが大統領に当選すると、フランス共産党は同政権に入閣したが、1984年に「政策不一致」で脱退する。

1985年に開催した第27回党大会では、1970年代の「左翼連合」および1980年代のミッテラン政権での経験を「社会党との共同を追求したこと自体が誤りだった」と総括し、同大会で「社会主義フランスの建設」を強調する方針が採択された(1990年の27回大会では「フランス的な社会主義プロジェクト」に「発展」した)。

フランス共産党は、1979年ソ連軍によるアフガニスタン侵攻1980年ポーランド干渉などについて、常にソ連邦政府を全面的に支持した。また、ソ連邦の核兵器保有を全面的に支持していたが、ソ連共産党ゴルバチョフ書記長が1986年1月に「2000年までに全世界から核兵器をゼロにする」という提案を発表すると、フランス共産党は「ゴルバチョフ同志の提案を我が物にする」と核兵器の廃絶を訴えるようになった。



ソ連崩壊と民主集中制の放棄

1991年ソビエト連邦の崩壊による各種文書の情報公開によって、ソ連共産党が長年にわたってフランス共産党へ資金援助していたことが明るみに出た[12]1994年にフランス共産党書記長に就任したロベール・ユー

1994年1月の第28回大会で民主集中制を規約から外した。そして、同大会で1970年以来党運営を担ってきたジョルジュ・マルシェが引退し、ロベール・ユーが書記長に就任した。[12]


1997年国民議会選挙では改選前を上回る議席を獲得して健闘。選挙後に「第三次保革共存(コアビタシオン)」として発足した社会党政権に、ジャン=クロード・ゲソ(運輸相)やマリー・ジョルジュ・ビュフェ(青年・スポーツ相)などを入閣させた。この時期の共産党指導部は新自由主義的改革とそれに伴うフランスの伝統的な福祉政策の転換に反対せず「ゲソ同志を困らせるな」をスローガンにして、労働組合などによる「民営化反対」の要求・運動を抑制した。2002年フランス大統領選挙では、書記長のロベール・ユーが出馬したが、歴史上初めてトロツキスト政党である労働者の闘争(LO)や革命的共産主義者同盟(LCR)の候補の得票を下回った。ユー指導部は、この大敗の責任を取って退陣、ビュフェを全国書記に選出すると、新しい指導部は「新自由主義反対」を強く打ち出すようになる。しかし、ユーら旧指導部は、現在のビュフェ路線を「反対ばかりで対案がない」と批判する。またビュフェ指導部も、ユー時代の「民営化推進路線」そのものを自己批判しているわけではない。

1989年の段階で党員数20万人と発表していたが、現在は衰退著しくその半数以下と思われる。大衆運動の現場では、トロツキスト勢力との共闘も深めており、路線に若干の幅を見せている。しかし、近年は「社会主義的理想主義」を掲げる若手党員は主にLCR(2009年2月に反資本主義新党-NPAに移行)に、あるいは同党の「愛国主義的伝統」をアイデンティティーにする古参党員は極右政党の国民戦線に(それぞれ場合によっては地方・下部組織ごと)移行しているケースも少なくなく、フランス共産党は組織存亡の渕に立たされているといえる。ただし、ナンテールなどバンリュー(大都市郊外の公営住宅地)では依然として共産党が強い勢力を維持している地域もある。
2000年代以降フランス共産党地方支部の建物(2009年)。2012年パリに於けるフランス共産党支持者によるデモ行進。

フランス共産党は、2005年EU憲法批准の是非を問う国民投票に際して、「反新自由主義」の立場から批准に反対し、反対派の勝利に一定の貢献を果たした。このEU憲法批准に反対した反新自由主義左派グループ(フランス共産党、革命的共産主義者同盟-LCR、緑の党、労働者の闘争-LO、など)は、「5月29日全国コレクティブ」(「5月29日」はEU憲法批准反対派が国民投票で勝利した日)を形成して2007年フランス大統領選挙を睨んで左派統一候補を擁立する議論を行い、「全国コレクティブ」は投票で共産党の全国書記マリー・ジョルジュ・ビュフェを選出した。

しかし、LCRは「共産党の組織力を背景にした多数派工作による選出」と反発した。ビュフェは「共産党色」を薄めるために、書記長職の辞任を示唆したが結局「全国コレクティブ」は決裂し、「反新自由主義」各党がそれぞれ候補者を擁立する結果となった。LCRが共産党のユ指導部時代の民営化政策の撤回を迫ったが、共産党がそれを拒否したことも決裂の一因となった。また、ビュフェを「反新自由主義勢力の代表としての候補」か、あるいは「伝統的共産党の候補」として擁立するかで共産党内部でも意見が二分したが、最終的にはビュフェは「共産党と無党派市民の共同候補」という体裁で、同党初の女性大統領候補として立候補することになった。この共産党の動きを「セクト主義」とした同党のエヌ県モン・ドリニィ支部では、30数人で構成する共産党の支部が解散することを決定して、その半数がLCRに加盟してブザンスノーの大統領選挙を支援することを表明した。

ビュフェは大統領選第一次投票で、707,327票の得票(得票率1.94%)の12人の候補者中7位に留まり、前回の3.37%からさらに後退した。「トロツキスト候補」であるLCRのオリヴィエ・ブザンスノー候補にも大きく水をあけられ(ブザンスノーは4.11%を獲得)、この間の共産党の退潮傾向にさらに拍車をかける結果となった。フランス共産党は、フランス社会党セゴレーヌ・ロワイヤル候補と右派ニコラ・サルコジ候補の対決となった決選投票において、ロワイヤルへの投票を呼びかけた。

大統領選挙第2回投票の翌月に行われた国民議会議員選挙(6月10日、17日投票)では前回より6議席減の15議席を獲得した。

2009年2月、社会党から分裂した左派グループが結成した左翼党反資本主義新党内の少数グループであるユニテリアン左翼とともに、同年6月に実施された欧州議会議員選挙に向けた選挙共闘ブロックとして左翼戦線 (Front de gauche) を結成。


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