1870年の 普仏戦争、そして短命に終わった1871年のパリ・コミューンは、フランス愛国心を強めるきっかけとなった。第一次世界大戦 (1914年-1918年)までは、フランスの政治家たちは、アルザス=ロレーヌ地方問題から目を離すことができなかった。そしてこの問題が、フランス国家の定義、そのままフランス国民の定義に深い影響を及ぼした。更にドレフュス事件により反ユダヤ主義が高まった。このような中で、王党派知識人のシャルル・モーラスは反議院内閣制を唱えるアクション・フランセーズの一員として、「反フランス」という言葉を造語した。これは共和制の「民族的出自や宗教的信念と無関係にあらゆるフランス市民を『フランス人』とする」という定義への、最初期の反対運動のひとつであった。 モーラスの「反フランス」という言葉は、カトリック教徒フランス人を、4つの「よそ者」の「同盟国」、すなわちユダヤ人、フリーメイソン、プロテスタント、そして「メトイコス」(meteques、移民など)に対立させたのである。
19世紀半ば頃、フランスでの産業革命が展開し始めた頃より、フランスの人口趨勢に変化が生じた。急速に産業発展を遂げるフランスには、次の100年間にヨーロッパ中、特にポーランド、ベルギー、ポルトガル、イタリアそしてスペインから何百万人もの移民が流れ込んだのである。
1960年代には、フランスへの移民第二波が起こった。これらの移民は第二次世界大戦以後の荒廃した国土再建のために必要であった建設事業を安価な労働力として支えた。フランス企業は、マグレブに安価な労働力を買い付けに赴き、フランスへの就労移民を促進したのである。これらの移民の定着は、 ジャック・シラクの1976年の「家族再会法」(regroupement familial)によって公的に進められた。これ以後、移民のあり方は多様化し続けているが、今ではフランスは他のヨーロッパ諸国に比べると、大きな移民受入国ではなくなっている。 西半球には、民族的フランス人の子孫であると自認する人々が相当数いる。カナダのケベック州は、大西洋西岸のフランス系社会の中心地となっており、もっとも歴史の古いフランス系移民社会であると同時に、フランス語による芸術活動、メディア活動、教育の活発な中心地でもある。オンタリオ州とニューブランズウィック州を中心に、カナダの他の地域にも、多くのフランス系カナダ人コミュニティーが存在する。そのため、カナダでフランス人というとフランス国籍者よりもむしろ英語系住民との区別でフランス語系住民を指すことが多い。 アメリカ合衆国にもまた、数百万のフランス系移民が住み、その主な居住地はルイジアナ州とニューイングランドである。ルイジアナのフランス系社会にはクレオール、フランス領時代に移住してきたフランス人子孫、そして、18世紀半ばのアカディアにおける大規模追放(en:Great Upheaval
フランス系人口
また、独立前のアメリカにおける、イギリス人入植地やオランダ人入植地が、多くのフランス人ユグノー教徒を引きつけたことにも触れておくべきだろう。後にニューヨーク州とニュージャージー州北東部となるオランダ人入植地では、フランス系ユグノーは宗教的にほぼ同じ教義を持つオランダ改革派のコミュニティーに、ほぼ完全に同化していった。フランス系であるという出自も忘れ去られ、名前をオランダ風に改名する者も多かった(例、意味の翻訳:ドゥ・ラ・モンターニュ(de la Montagne)> ヴァンデンベルフ(Vandenberg)。どちらも「山の」の意味。音の置換:ドゥ・ヴォー(de Vaux)>デヴォス(DeVos)あるいはデヴォー(Devoe))。イギリス人入植地でも、多くのユグノーが移民し、同様に同化していった。事実、これらの地域への入植は、ケベック州への入植とほとんど同規模であったのだが、既存コミュニティーへの同化により、フランス系の文化的固有性はほとんど失われていった。幾つかの彼らの文化的出自の痕跡として、ニューヨーク州のニュー・ロシェルは、ユグノー難民の出身地の一つであったフランスのラ・ロシェルから名付けられている。また同じくニューヨーク州のニュー・パルツは、ユグノー教徒の農村地域の建物が現存する地域である。
南アメリカでは、主にアルゼンチン、ブラジル、チリにフランス系の人々が居住している。
フランス国外に居住する、フランス系の特別な民族名をもつ集団として、ケベック人(ケベコワ Quebecois)、アカディア人(アカディアンAcadians/Acadiens)、ケイジャン(Cajuns)の他に、ニューカレドニアのカルドッシュ(Caldoches)、またインド洋の諸島に住む、いわゆるゾレイユ(Zoreilles)やプチ・ブラン(Petits-blancs)がいる。北アフリカのフランス植民地時代にはピエ・ノワ(Pieds-Noirs)と呼ばれる多くのフランス系住民が居住していたが、植民地が独立した後はほとんどがフランスやイスラエルなどへの移住を余儀なくされた。
言語詳細は「フランス語」および「フランスの言語政策」を参照