フランスの歴史
[Wikipedia|▼Menu]
青銅器時代になると、ビーカー文化等が起こり、紀元前900年頃にはケルト人が到達したと考えられる[2][8]。彼らは現在のフランス人の多数派を占めるハプログループR1b (Y染色体)に属していた[9]

青銅器時代から鉄器時代に移行すると、キンメリア人によってもたらされた鉄の冶金術によってハルシュタット文化が栄え、またケルト人らはフランス以外にも小アジアから北イタリア、イギリスやアイルランドなどに分布し、ラ・テーヌ文化と呼ばれる文化も隆盛した[8][10]
ガリア詳細は「ガリア」および「ガロ・ローマ文化」を参照ウェルキンゲトリクスの銅像

紀元前600年頃、古代ギリシア人によって西地中海に植民市マッサリア[注釈 1]やニカイア[注釈 2]が建設され、ギリシア文化がもたらされた[1][11][12]アナトリア半島バルカン半島からフランスイギリスに至る地域の原住民を古代ギリシア人たちはケルトイ、ガラタイと呼び、古代ローマ人たちはガッリー(ガリア人)と呼んだ。そして彼らの住む地はガリア(ガッリー人の地)と呼ばれた。かれらは現代ではケルト人とも呼ばれる[13][14]

ガリア人は多くの部族に分かれ住んで、統一国家を作らなかった[1]。各部族は戦士を兼ねている貴族が集会を通じて行政官を選び、農民を支配していた[1]紀元前58年から紀元前51年にかけてローマの有力者ガイウス・ユリウス・カエサルはガリア遠征を行い、その記録を「ガリア戦記」という著作に残した。カエサルは「ガリア戦記」の中で、当時のガリアの情勢を次のように説明している。ガリアは全部で3つに分かれ、一つはベルガエ人、二つ目はアクィータニー人、三つ目は彼らの言葉でケルタエ人、ローマでガリア人と呼んでいるものが住む。どれも互いに言葉と制度と法律が違う。 ? ユリウス・カエサル、ガリア戦記

カエサルがガリアで、最も苦戦した相手にアルウェルニ族ウェルキンゲトリクス率いるガリア諸部族による連合軍が挙げられる[15]。しかしウェルキンゲトリクスも紀元前52年、ローマ軍にアレシアで包囲され降伏した[16]

こうしたローマによるガリア遠征を受けた後は、いくつかのローマ風都市も建てられ、ローマ化が進んでいった[15]。ローマ時代には、ガリアという言葉は現在のイタリア北部やドイツの一部、ベルギースイス等の領域を含むより広い範囲を指したが[13][14]、紀元前1世紀末、ローマ皇帝アウグストゥス時代にアルプス以南のガリアが「イタリア」に編入され[17]、やがてほぼ現在のフランスにあたる地域がガリアに対応するようになっていった[注釈 3]。アルプス以北のガリアはガリア・ナルボネンシスアキタニアガリア・ルグドゥネンシスガリア・ベルギカ、ライン軍政地区の5つの地方に分けられ、それぞれの地域の実情を加味した行政組織を樹立させた[16][18]

ガリア人たちによるローマ支配への抵抗は散発的なものに終わり、ガリアの貴族層はむしろローマ文化を積極的に受容し、ローマに同調する傾向が強かった[19]。こうした貴族層の動向に加え、ローマ植民市の建設や軍事目的による道路網の整備を通じてローマ化されたガリアでは、ローマの文化の影響を色濃く反映した、ガロ・ローマ文化が栄えた[20][21]。特にアルルニームといった地域には、ローマの円形劇場や水道などの跡が多く残る[11]

1世紀半ばには、ガリアの都市リヨン出身のクラウディウスがローマ皇帝となった。彼はガリアの貴族層によるローマ元老院への参入に反発する元老院議員たちに対し、ローマが異民族を積極的に迎え入れることで発展したことを主張し、また征服以来のガリア貴族層のローマに対する忠誠を称揚した[22]。属州民へのローマ市民権の授与もこの頃から拡大した。ローマ軍に参加したガリア人兵士たちは退役後にはローマ市民権を得て帰郷し、従軍中の給金等を通じて土地を取得してローマに忠実な上層市民を形成していった[22]。ガリア諸属州の下部単位はキウィタスと呼ばれたが、ローマは秩序の維持と徴税義務を果たしている限り相当な自由を認めていた[23]

3世紀に入りローマ支配が動揺(3世紀の危機)するようになるとガリアでも治安が悪化しはじめた[24]。3世紀半ば、ライン国境からゲルマン人諸部族の侵入が相次ぎ、これの対処にあたった下ゲルマニア総督ポストゥムスが260年に皇帝を名乗りガリア帝国が形成された。ガリア帝国は短期間に瓦解したが、3世紀後半にはこうした内乱や外的の侵入によってガリアは深刻な打撃を受けた[25]。3世紀の危機を収束させたディオクレティアヌスコンスタンティヌス1世の時代を経て、ローマ帝国の構造改革が行われると、ガリアの属州は細分化されトリーアに拠点を置くガリア道長官がこれを管轄した。防衛にあたる辺境軍は数州毎にドゥクス(地方軍司令官)の下に置かれた[26]

5世紀に入ると、ローマ内の内乱とライン国境からの侵入が一層進展し、418年には西ゴート人がガリア南西部に正式に居住を認められ、その後ブルグント人アラン人などが次々ガリアに定着していった[27]。451年にはアッティラ王率いるフン族が侵入し、西ローマ帝国の将軍アエティウスが西ゴート王テオドリック1世とともにカタラウヌムの戦いでこれを撃退したが、この頃までにガリアにおけるローマの支配力は大きく弱体化していた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:584 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef