フランスのファッション
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4人姉妹が経営した)、ポール・ポワレ(1903)、マドレーヌ・ヴィオネ(1912)、シャネルココ・シャネルが設立し、1925年に著名となった)、エルザ・スキャパレッリ(1927)、バレンシアガ(スペイン人のクリストバル・バレンシアガが1937年に設立)といったメゾンを通じて拡大していった。アール・デコイラストレータージョルジュ・バルビエによる「ジャンヌ・パキャンのガウン」(1914)

大物のファッションデザイナーはもはや顧客に奉仕する職人ではなく、第二帝政下で形成された、正当性と同時に精神も求めようとするそれ自身の混淆した世界の一部となっていた。シャルル・ボードレールによって理論付けられたダンディスムと共に、趣味の端正さが生まれつきの代わりとなり、美学が一種の倫理を構成し、それは選民として生まれずとも模倣できるものであった。

19世紀初頭には、デパートと同時に、既製服(後のプレタポルテ)が出現した。既製服は高級な素材の安価な模造品を用い、ファッションを大衆化させた。後にはこの分野にもキャシャレル(フランス語版)やジャン=ポール・ゴルチエのように独自の才能あるデザイナーも現れた。

普及のために、ファッションは画像、イラストレーションテレビなどと協力するようになった。ココ・シャネルは1930年にサミュエル・ゴールドウィンとの間でユナイテッド・アーティスツのスターたちの衣装を供給する協定を締結した。1985年頃以降、トップモデルたち自身もまたメディア上のスターとなるようになった。
第二次世界大戦

ヴィオネやシャネルを含む多くのメゾンが第二次世界大戦のパリ占領下で閉鎖した。洗練され解放的なパリジャンとは対照的に、ヴィシー政権は良妻賢母、逞しく強壮な若い女性という、政権の新しい政治的基準に沿ったモデルを推進した。またドイツは、ハイファッションを含むフランスの生産物の半分以上を収奪しており、さらにフランスのオートクチュールを、ファッションの伝統がほとんどなかったベルリンウィーンに移すことまで検討していた。顧客のリストを含むクチュール雇主連盟(英語版)の書庫も押収された。ユダヤ人はファッション産業から締め出された。

困難な時節柄、ファッションショーのモデルは75人に限定され、夜会服は切り詰められ、デイウェアも大きく軽量化され、可能な限り代用物資に置き換えられた。1940年以降、コートには4メートルの布までしか使用が許されず、ブラウスには僅か1メートル強の布しか許可されなかった。ベルトの幅も4センチまでに制限された。戦時の青年たちにはザズー(フランス語版)が人気となった。

戦時中に多くのメゾンが閉鎖もしくは国外移転したにもかかわらず、ジャック・ファット、マギー・ルフ(フランス語版)、マルセル・ロシャ(英語版)、ジャンヌ・ラフォリ、ニナ・リッチ、マドレーヌ・ヴラマンなど、少なからぬ新しいメゾンは営業を続けていた。占領下では、女性が贅沢を見せびらかしくすんだ服装に彩りを加える唯一の方法は帽子を被ることであった。この時期には、帽子は普通なら廃棄されるような素材の切れ端から作られていることが多く、時にはチーズクロス(チーズを包むガーゼ)、紙切れ、おがくずなどが混合されていることもあった。当時最も創造的だった帽子職人にはポーリーヌ・アダム、シモーヌ・ノーデ、ローズ・ヴァロワ、ル・モニエがいる。
戦後

戦後のファッションは1947年、クリスチャン・ディオールの高名な「ニュー・ルック」を通じて輝きを取り戻した――このコレクションは小さなウエスト、堂々たる胸、小さなコルスレの下から膨らむフルスカートで出来たドレスから成っており、ベルエポックの様式と非常に近いものであった。布の贅沢な使用やデザインの女性的な優美さは戦後の顧客たちに力強くアピールした。この時期の重要なメゾンには他にピエール・バルマン(英語版)やユベール・ド・ジヴァンシーなどがある。ファッション誌『ELLE』は1945年にフランスで創刊された。1952年にはココ・シャネルもパリに戻った[8]

戦後のファッションでは女性の身体の解放が際立つようになる。戦前にポール・ポワレが下地を作り、ココ・シャネルが続き、「若者」の発見と工業化の進行が背景となった。衣服の民主化は若者のファッション運動の隆起と並行して起こり、音楽の流行と不可分なものであった。ファッションを限られた選良の威信のためのものや、芸能界のものや、あるいは社会学的な意味での識別のためのものに還元することはそう簡単ではなくなった。英語ではブルジョワ的なファッションの秩序のことをfashion、秩序破壊的なもののことをfadと有効に言い分けている。

メディアの力によって「華々しい特権階級」、すなわちスター、アーティスト、それからトップモデルたちが消費の模範として社会に現れるようになった。これらショービジネスのブルジョワジーは社会経済的な世界に属する者であるが、同時にそこから解放された存在のようでもある。さらに、ファッション界と街中の関係も複雑になっている。誰が誰を模倣しているのか?テネシー・ウィリアムズ原作の映画『欲望という名の電車』(1948)でスタンレーを演じるマーロン・ブランド

あれやこれやの衣服なり装身具なりが、ある人物(セレブリティ俳優・女優、トップモデルなどなど)がそれを身に着けたことで「流行」になるという現象がしばしば見られる。そうして数知れぬ着こなし方が流行となった。例えば――

映画俳優のジョン・ウェインマーロン・ブランドジェームズ・ディーンらが着てテレビに出たことで、Tシャツの着用が急速に広まった。大衆は最初これに不快感を覚えたが、時と共に受け入れられていった。ブルック・シールズはこの有名なフレーズで「カルバン・クライン」ブランドの立ち上げに貢献した――「私とジーンズの間に何があると思う?」

ビキニは1956年にブリジット・バルドーが映画『素直な悪女』でヴィシー織のビキニを着てから飛躍的に多く着用されるようになった。

タートルネックは映画俳優ノエル・カワードが着てから急速に普及した。

エルメスバッググレース・ケリー妃が持つようになってから「サック・ケリー」(ケリーの鞄)と呼ばれて大流行した。1956年に『ライフ』誌に掲載された、グレース・ケリーが大きな「サック・ケリー」で妊娠したお腹を隠している写真がこの神話の元であった。

襟ぐりのあるタートルネックもまたステファニー・ド・モナコ妃がこれを着ている写真が出てから流行した。

1960-1990年代

1966年に、イヴ・サン=ローランプレタポルテのブランド「リヴ・ゴーシュ」を立ち上げることで、確立されたオートクチュールの規範と縁を切り、フランスのファッションを大量生産とマーケティングの領域へと拡大した(「サンディカ」の構成員はミシンの使用すら禁じられていた)[9]パコ・ラバンヌピエール・カルダンがさらに革新を推し進めた。「リヴ・ゴーシュ」創設以降、オートクチュールの単なる代用品ではない贅沢なプレタポルテというものも存在するようになり、ごく限られた数の顧客のために仕事をするオートクチュールは純粋芸術という身分と、宝飾品や香水の販促手段という身分との間で揺れている。ジーンズを穿いたヒッピー

1960年代には、人と違おうとする意志よりも画一性の方が目につくようになり、ゲオルク・ジンメル(1904)流儀のファッション社会学者の解釈の指標ともなった。ハイファッションは(イエイエ族(フランス語版)を含む)フランスの若者文化の批判に晒されるようになり、若者はロンドンやカジュアルなスタイルの方を向くようになった。1967年以降、フランスではジーンズが圧倒的に広まった。ジーンズは程なく世界中の若い男女のユニフォームとなっていった。矛盾したことに、それが「政治社会的に疑わしい」「ブルジョワ的な」服飾産業を拒否して個性とリラックスを要求するやり方となっていた[10]1980年代には、再び差別化が求められるようになる――後にテレビ向け美術評論家となるエクトル・オバルク(フランス語版)(別名エリック・ウォルター)、アラン・ソラル(フランス語版)、アレクサンドル・パシュ(フランス語版)が互いに競合するファッション運動を(ユーモアを交えて)「ご両親たちに」解説して見せて成功を収めた[11]


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