フランシスコ_(ローマ教皇)
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軍事政権により拉致、拷問された2人の司祭に関して、当時イエズス会のアルゼンチン管区長であったベルゴリオ枢機卿の責任を問う声がアルゼンチン国内に存在する[10][354][355][356][357]

イエズス会の司祭で解放の神学に賛同していたオルランド・ジョリオとヤーリチ・フェレンツは、1976年5月、ブエノスアイレスのスラムから当時収容所として利用されていた海軍施設に連行された。この施設では政治犯5,000人が殺害されている。2人はこの施設で5か月間拷問などを受け、10月にブエノスアイレス郊外で半裸かつ薬で朦朧とした状態で解放された[357]

「汚い戦争」に関する著作で知られているジャーナリストのオラシオ・ベルビツキは、著書『沈黙』において、ベルゴリオが先の2人の貧困者支援活動を後援する一方で、政治的左派に影響を受けていた彼らの社会運動に関する懸念を軍事政権に伝えており、2人が身の危険を感じベルゴリオの庇護を求めた際もそれに応じなかったと主張している[354]。しかし、イエズス会ドイツ管区は、その声明において、2人が当時ベルゴリオによりイエズス会を追放されたというベルビツキの記述に由来する報道を否定している[358][359]

このベルビツキの主張に関しては、多くの異論も存在する。ブエノスアイレス・ヘラルド紙の記者だったイギリス人のロバート・コックスは、ベルビツキの主張は誤りではないが、当時の危険な状況におけるベルゴリオの立場も考慮するべきだと指摘している。コックスは、ベルゴリオは2人を軍事政権に引き渡すことなどはしていないが、同時に保護したり声を上げることもなかったと述べている。1980年ノーベル平和賞を受賞したアドルフォ・ペレス・エスキベルもまた、コックスの見方に同意し、ベルゴリオには充分な勇気がなかったと言えるかもしれないが、軍事政権と協力したことはないとの見解を披瀝している[354]

軍事政権下の国家犯罪を追及している弁護士のミリアム・ブレグマンは、ベルゴリオが2人に関する裁判に消極的だと批判しており、オルランド・ジョリオの家族や汚い戦争の犠牲者の家族団体の創設者は、ベルゴリオ枢機卿の教皇選出に不満の色を見せている[10][354]

一方でベルゴリオの行動を肯定ないし称賛する者も存在する。ベルゴリオの伝記『ジェズイット』の共著者であるフランチェスカ・アンブロジェッティは、ベルゴリオが軍事政権の指導者ホルヘ・ラファエル・ビデラや収容所の責任者であった海軍長官のエミリオ・エドゥアルド・マセラ(スペイン語版)に面会して善処を求めるなど、ベルゴリオは、当時置かれた状況でできうる限りのことをやった「英雄」であると述べている[354]

2005年に行われたインタビューにおいてベルゴリオは、2人の誘拐の一報を聞いて直ちに行動にうつり、ビデラとマセラに2人の釈放を求めたと答えている。ローマ教皇庁の広報局長は、ベルゴリオは「独裁政権下で人々を救うために尽力し」ており、先の告発は信頼できず、彼がアルゼンチンの司法当局から罪を問われたこともないとコメントしている。またこのような批判は、カトリック教会の信用失墜を狙った中傷であると主張している[360]

2013年には、ヤーリチ・フェレンツ自身が、「オルランド・ジョリオと私は、ベルゴリオ神父によって告発されたことはない」として、ベルゴリオの責任および関与を明確に否定した[361][362][363]。ベルゴリオに助けられた人々の証言記録集『ベルゴリオズ・リスト(Bergoglio's List)』が出版されている[364][365]
人物・逸話
庶民感覚

質素な生活を好むベルゴリオは、普段の移動の際にも地下鉄バスといった公共交通機関を利用し、バチカンへ向かう飛行機エコノミークラスを利用していた[366]

ブエノスアイレスでいつも新聞を宅配してくれていた新聞販売店の店主のダニエル・デル・レグノに、「ダニエルさん、枢機卿のホルヘです。ローマからかけています。いつも新聞の宅配をありがとうございます」と直接電話し、「ローマに滞在することになった」から新聞の宅配を停止してくれるよう依頼した。3月26日にAFPの取材に応じた同店主によると、ベルゴリオは「3週間ほどで帰ってくる」と言い残してローマに出発したが、大司教(枢機卿)が教皇に選出されたので、これまで枢機卿が購読していた『ラ・ナシオン』紙についてどうすべきか地元の教会関係者に照会しようとしていた矢先の電話だったという。店主とベルゴリオの関係は、仕事上というより個人的なもので、息子の洗礼を授けてもらったという。電話を受けた当初はイタズラ電話だと思ったが、本当にローマ教皇からの電話だとわかると、「感動のあまり涙があふれ言葉が出なかった」と店主は語っている[367][368][369]

フランシスコはローマのイエズス会本部にも、アドルフォ・ニコラス師へ「教皇選出祝いの返礼のため」に自ら電話をかけており、電話を受けたイエズス会の職員を驚かせた。教皇就任後も秘書官を通じてではなく、一般信徒にも直接自ら電話を掛けるフランシスコに、電話に出た信徒らが感動のあまり言葉を失うために、イタリアの主要紙コリエーレ・デラ・セラが「教皇電話対策マニュアル」を掲載したほどである[370]

ブエノスアイレス大司教区で部下だったフェデリコ・ワルスは、「本当に質素な方。自動車も携帯電話も持たず、新聞も靴下も自分で買う。いただいた贈り物は全て貧しい人にあげる。大好物のチョコレートぐらいは食べたかもしれませんが」と語る。住居に隣接するビジャソルダティ地区のスラム街に「十数年間、電車と地下鉄を1時間乗り継ぎ、ふん尿の臭いが漂う道路を歩いて通い」、ホームレスや外国移民の生活向上に尽力した。「必要なのは愛と平和だけ」というのが信条で、集会では「枢機卿(カルデナル)」と呼ばれるを嫌い、「神父(パドレ)」と呼んでくれと述べるという[371]

あまり派手な送迎は好まず、その地で一般販売されているファミリーカーなどに搭乗して移動を行い、近隣のハンバーガーショップを控室に充てるなど滞在先でも待遇に頓着しない人物である[372]
幼年の求婚と司祭への道

2013年現在ブエノスアイレス在住のアマリア・ダモンテという女性は、子供の頃にホルヘ・ベルゴリオ少年と同じフローレス地区に住んでいた幼なじみである。同女性によると、彼女とベルゴリオ少年が12歳の頃、彼女はベルゴリオ少年から「君と結婚したときに買う家」として赤い屋根と白い壁の絵を描いたラブレターをもらった。ベルゴリオ少年は「結婚できなければ司祭になる」と言ってアマリアに求婚したが、ラブレターはアマリアの両親に破り捨てられ、返信しようとした彼女はその父親に殴打された。その後は彼女と会うこともできないまま、ベルゴリオ少年は聖職者の道を歩むことになったという。彼女自身はそれを「恋愛というには幼い頃の単なる経験」としている[373][374][375]
文学と芸術

文学や哲学に関する読書は広範にわたるもので、ドイツ・ロマン派の詩人ヘルダーリンの詩を暗唱し、ドストエフスキーの作品を愛好していた[376]ブエノスアイレス大学の学生時代には、アルゼンチン現代文学を代表する作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの講義も聴講した経験もあり、作家と親交のあったベルゴリオは、インマクラーダ学院で文学を教えていた時代に、生徒たちに書かせた作品の序文を書いてもらった[377]。神学分野では、ロマーノ・グアルディーニ(ドイツ語版)や、かつて指導を受けたヨーゼフ・ラッツィンガーウルス・フォン・バルタザールなどの著作に傾倒していた。


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