フランシスコ_(ローマ教皇)
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その後1964年から1965年にかけて、サンタフェ州の無原罪(インマクラーダ)学院で文学と心理学の教鞭を執ることになり、1966年にはブエノスアイレスのサルバドーレ学院でも同じ教科を教えた[13][14]1967年、ベルゴリオは本格的に神学の勉強を再開し、ブエノスアイレス州のサン・ミゲル神学院に進学。

1969年12月13日にはラモン・ホセ・カステジャーノ(英語版)大司教によって司祭叙階された。1970年には修士号を取得。1972年から1973年の間、サン・ミゲルのヴッラ・バリラリ修練院修練長を経て、神学の教授、管区顧問、神学院院長に就任した[15]。その指導力を高く評価されたベルゴリオは、1973年7月31日にアルゼンチン管区長(英語版)に任ぜられ、1979年までの6年間この職を務めた。1980年から1986年の間にはサン・ミゲルの神学校の神学科・哲学科院長、サン・ミゲル教区のサン・ホセ小教区の主任司祭を務める。1986年3月には博士号取得の為、ドイツフランクフルトにあるイエズス会が運営する聖ゲオルク神学院(ドイツ語版)に在籍。同僚の話によると、この時期ベルゴリオはドイツの神学者ロマーノ・グアルディーニ(ドイツ語版)に興味を示していたという[16][17]。その後アルゼンチンに帰国し、サルバドーレ学院院長を経て、コルドバで霊的指導者(英語版)・聴罪司祭(英語版)を務める[13][18]結び目を解くマリア

また、この時期ドイツのアウクスブルクにある聖ペトロ・ペルラッハ教会で『結び目をほどくマリア』の絵に出会い、複製をつくる許可を得て、この画像の絵葉書をアルゼンチンに持ち帰っている[19][注釈 5]。なお、この絵画が描かれた直接の由来は、以下のようなものである。ドイツの貴族ヴォルフガング・ランゲルマンデル(1568?1637)は、妻が彼との離婚を望んでいたことに悩み、英知と経験さで尊敬されていたイエズス会のレム神父のもとに相談に行った。当時のドイツでは、結婚式のときに生涯添い遂げることを象徴的に示すため、ウェディング・リボンで新郎・新婦のそれぞれ片方の腕をひとつに結ぶ習慣があった。ヴォルフガングは、今はからみあってしまっていた自分たちの結婚式のリボンをレム神父のところに持って行き、レム神父はその結び目をときながら聖母マリアに熱心に祈った。すると、その願いが聞き入れられ、ヴォルフガングは離婚を避けることができ、生涯幸福な結婚生活を送ることができた。1700年、新世紀を祝福されるために、ヴォルフガングの孫のヒエロニムス・ランゲルマンテル神父が画家のヨハン・シュミットナーに依頼して書かれた絵がこの「結び目をほどくマリア」の絵である[21]。これはアルゼンチンのマリア崇敬にとってマリアへの重要な捧げものとなった[22]。リオデジャネイロの宗教学研究所の「レジーナ・ノヴァエス」によれば、こうしてもたらされた『結び目をほどくマリア』は「悩みをかかえる人々を惹きつけた」という[23]2005年ベネディクト16世に贈呈したカリス聖杯)にも『結び目をほどくマリア』の姿を描かせている[24]

宣教活動視察のため、1987年に来日している[25][26]
司教時代

ベルゴリオは1992年5月20日に、ヨハネ・パウロ2世[注釈 6]によりブエノスアイレスの補佐司教およびアウカの名義司教[27]に任命され、同年6月27日にアントニオス・クアラチノ(スペイン語版)枢機卿(ブエノスアイレス大司教)の司式によって司教に叙階された。1997年6月3日にブエノスアイレス協働大司教に任命され、翌1998年2月28日、クアラチノ枢機卿の死去により後継としてブエノスアイレス大司教となった[13]。また同年11月6日より、アルゼンチン居住の裁治権者(英語版)をもたない東方典礼カトリック教会信者の裁治権者を兼任した[28][29]
枢機卿時代枢機卿としてミサにて。 (2008年)
右はキルチネル大統領

2001年2月21日にはヨハネ・パウロ2世によってベルゴリオ大司教は聖ロベルト・ベラルミーノ教会(英語版)の枢機卿に任命された。枢機卿として、ローマ教皇庁の以下の5つの管理職的な地位に就いた。

典礼秘跡省 委員

聖職者省(英語版)委員

奉献・使徒的生活会省(英語版)委員

家庭評議会(英語版)委員

ラテンアメリカ委員会(英語版)委員

2001年9月11日にニューヨーク大司教(英語版)であるエドワード・イーガン(英語版)枢機卿がアメリカ同時多発テロ事件ののち急遽帰国した秋に、ベルゴリオは教会会議で、書記として彼の代理を務めた。『カトリック・ヘラルド』によると、「交わりと対話に開放的な人物として好ましい印象を醸し出した」という[30][31]

宮殿のような司教館ではなく小さなアパートに居住し、お抱えのリムジンの使用を拒否して公共交通を利用していたベルゴリオ枢機卿は[32]、個人的な謙遜と教義上の保守主義と社会正義への関与で知られるようになった[33]

ベルゴリオ枢機卿は、2005年にヨハネ・パウロ2世が死去した直後の使徒座空位の間には、聖座とローマ・カトリック教会を暫定的に統治する枢機卿団の一人になり、新教皇を選出するコンクラーヴェに選挙枢機卿の一人として参加した。

カトリック系のジャーナリストのジョン・L・アレン(英語版)によれば、ベルゴリオは2005年コンクラーヴェにおいて、新教皇の有力候補の一人であったという[33][34]2005年9月、少数の枢機卿による非公式の日誌が公表され[35]、そこでは、ベルゴリオ枢機卿が、新教皇の最有力候補であったラッツィンガー枢機卿の主要な挑戦者として取り沙汰されていた。件の日誌では、3回目の投票でベルゴリオは40票を獲得し、4回目にして最後の投票で26票と数を落としたと主張されている[36]。イタリアの有力紙『ラ・スタンパ』は、選挙の間、ラッツィンガー枢機卿に対してベルゴリオ枢機卿が譲歩の姿勢に終始していたとし、ベルゴリオ枢機卿が枢機卿団に対して自分に投票しないようにと感情的な請願を出すにまで至ったと報じている[37]。結局、このコンクラーヴェでは、ベルゴリオの得票数はラッツィンガー枢機卿の次席となり[38][39]、勝者となったラッツィンガー枢機卿は教皇ベネディクト16世として2013年まで在位した。


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