新教皇の選出にあたり、日本のカトリック中央協議会は声明を発し、枢機卿自身は「フランチェスコ」とイタリア語で発音したが、「日本では英語の発音で『アッシジの聖フランシスコ』との呼び名が定着している」ので、混乱を避けるために「報道機関も英語読み[注釈 2]で統一してほしい」と要請した。そのとき、併せてアッシジのフランチェスコとの混同を避けるために「日本の教会は1世を付けて呼んでいく」と付言したが[4]、その後教皇庁大使館より日本カトリック中央協議会に通知があり、新教皇名には「1世」を付けないことになり、新教皇名を「教皇 フランシスコ」として各小教区・信徒・司祭・修道者に周知するよう指示がなされた[注釈 3]。
なお、本項目ではローマ教皇着座前の言動に関しては「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ」、着座後の言動に関しては「フランシスコ」と呼称を区別する。
概説
生い立ちラモス・メジア・サレジオ学院(現ウィルフリド・バロン学院)の生徒であった(1948年あるいは1949年)12歳のころのベルゴリオ(画面上から3列目の左から4人目の少年)。
ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(Jorge Mario Bergoglio)[注釈 4]は、1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレス特別区フローレス区で、イタリア系移民の子として生まれた[8]。父のマリオ・ホセ・ベルゴリオは、ピエモンテ州のポルタコマーロ出身の鉄道職員であり、母のレジーナ・マリア・シヴォリもまたイタリア系移民の子で、ブエノスアイレス出身である[9]。夫婦は中流の労働者階層で5子をもうけたが、ホルヘ・マリオは幼少期に感染症により右肺の一部を摘出している[10]。マリオ・ホセはホルヘ・マリオが小学校を卒業すると「教育上の配慮から」会計士事務所に働きに出された[11]。サレジオ会が経営するラモス・メジア・サレジオ学院(現ウィルフリド・バロン学院)を経て[12]、ブエノスアイレス大学で化学を学び学士号を取得した。 ベルゴリオは1958年3月11日にイエズス会に入会し、ブエノスアイレス特別区ビジャ・デボート区の神学校で司祭になるための勉強を始め、1963年チリで教養課程終了後、ブエノスアイレス州サンミゲル市のサン・ホセ神学院で哲学を学んだ。その後1964年から1965年にかけて、サンタフェ州の無原罪(インマクラーダ)学院で文学と心理学の教鞭を執ることになり、1966年にはブエノスアイレスのサルバドーレ学院でも同じ教科を教えた[13][14]。1967年、ベルゴリオは本格的に神学の勉強を再開し、ブエノスアイレス州のサン・ミゲル神学院に進学。 1969年12月13日にはラモン・ホセ・カステジャーノ
イエズス会入会
また、この時期ドイツのアウクスブルクにある聖ペトロ・ペルラッハ教会で『結び目をほどくマリア』の絵に出会い、複製をつくる許可を得て、この画像の絵葉書をアルゼンチンに持ち帰っている[19][注釈 5]。なお、この絵画が描かれた直接の由来は、以下のようなものである。ドイツの貴族ヴォルフガング・ランゲルマンデル(1568?1637)は、妻が彼との離婚を望んでいたことに悩み、英知と経験さで尊敬されていたイエズス会のレム神父のもとに相談に行った。当時のドイツでは、結婚式のときに生涯添い遂げることを象徴的に示すため、ウェディング・リボンで新郎・新婦のそれぞれ片方の腕をひとつに結ぶ習慣があった。ヴォルフガングは、今はからみあってしまっていた自分たちの結婚式のリボンをレム神父のところに持って行き、レム神父はその結び目をときながら聖母マリアに熱心に祈った。すると、その願いが聞き入れられ、ヴォルフガングは離婚を避けることができ、生涯幸福な結婚生活を送ることができた。1700年、新世紀を祝福されるために、ヴォルフガングの孫のヒエロニムス・ランゲルマンテル神父が画家のヨハン・シュミットナーに依頼して書かれた絵がこの「結び目をほどくマリア」の絵である[21]。これはアルゼンチンのマリア崇敬にとってマリアへの重要な捧げものとなった[22]。リオデジャネイロの宗教学研究所の「レジーナ・ノヴァエス」によれば、こうしてもたらされた『結び目をほどくマリア』は「悩みをかかえる人々を惹きつけた」という[23]。2005年にベネディクト16世に贈呈したカリス(聖杯)にも『結び目をほどくマリア』の姿を描かせている[24]
宣教活動視察のため、1987年に来日している[25][26]。 ベルゴリオは1992年5月20日に、ヨハネ・パウロ2世[注釈 6]によりブエノスアイレスの補佐司教およびアウカの名義司教[27]に任命され、同年6月27日にアントニオス・クアラチノ
司教時代