フランシスコ・フランコ
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フランコの一人娘であるカルメン・フランコ・イ・ポールは王政復古直後にフランコ女公爵に叙位された[59]
歴史の記憶法サンタンデール市のフランコ像(2006年)

2007年10月31日、スペイン下院議会はスペイン内戦とフランコ政権下の犠牲者の名誉回復、公の場でのフランコ崇拝の禁止などを盛り込んだ「内乱と独裁期に迫害と暴力を受けた人々のための権利承認と措置を定めた法(La Ley por la que se reconocen y amplian derechos y se establecen medidas en favor de quienes padecieron persecucion o violencia durante la Guerra Civil y la Dictadura)」、通称「歴史の記憶法(スペイン語版)」を与党社会労働党などの賛成多数で可決(Historical Memory Bill)。同年、上院でも可決成立した。

2008年10月より、「歴史の記憶法」に基づき、バルタサール・ガルソン予審判事は内戦被害者調査に着手。10月には、スペイン内戦中とフランコ政権初期に、反乱軍によって住民が虐殺されるなどの人道に対する罪戦争犯罪が行われたとして、スペイン全土に1,400か所あると思われる犠牲者が埋められている集団墓地の発掘や関係者の訴追など、人道犯罪調査を行うと発表した。一方、ハビエル・サラゴサ検事局長は、1977年に制定された特赦法「移行協定」により恩赦が成立しているとして、フランコ政権下の犯罪はすべて免責されているとの立場を示し、対立が起きた。

10月16日、ガルソン判事は、内戦中及び独裁政権時代に住民の殺害や拉致を命じたとして、すでに死去しているフランコ以下35人の政権要人を、人道に対する罪等で起訴した。

11月6日、ガルソン判事の調査が終了し、全国25カ所の集団墓地からの犠牲者発掘を命じた。翌7日、サラゴサ検事は案件は全国管区裁判所の管轄外だとして異議申し立てを行い、これを受けて11月28日、全管裁刑事法廷は集団墓地からの遺体発掘命令を停止すると決定した。同法廷のペドラサ判事は異議申し立ての処理が終了するまでガルソン判事の発掘命令とフランコ裁判を中止すべきと要請、同法廷全体会議にかけられ、これが認められた[60]

アムネスティ・インターナショナルは、内戦中及びフランコ政権下で市民11万4千人が殺害若しくは行方不明になっているとして、スペイン政府に犠牲者のための真実を解明するよう求めている。

スペインには数多くのフランコ像があったが、2008年12月、サンタンデールの広場にあった7メートルのブロンズ像(1964年建立)を最後に、本土からすべて撤去された[61]

2021年2月23日、モロッコに囲まれたスペインの飛び地メリリャから、スペインの国土に残る公共の場の最後のフランコ像が撤去された[62]
人道に対する罪

2008年10月16日、当時の予審判事バルタサール・ガルソンによって、独裁政権時の他の幹部とともにフランコは「人道に対する罪、理由なき違法拘禁の恒久的犯罪」の咎で起訴された[63]。この予審決定(予審判決)書で判事は「市民戦争から戦後にかけて、政治的、イデオロギー的、宗教的、またはその他の所属に関係なく、激しい暴力行為、虐殺、重大な権利侵害を被った全ての被害者に最大限の敬意を払う」とした上で、裁判の任務は「内戦の司法審査を行うこと」ではないと述べた。決定事項書は以下のように続いた。

上記および1936年7月18日以降実際に行なわれた武装蜂起または反乱、それは完全に計画された決定であり、当時のスペイン政府を終結させ、国家組織に責任を負う被害者の逮捕、拘留、拷問、強制的な失踪、政治的、イデオロギー的理由による何千人もの人々の身体的排除、また何千人もの人々の亡命と追放を促進するための手段として、あるいは少なくともその不可欠なステップとして、内戦終了後の数年に渡り、国内外、大規模または小規模に続いた状況をこの調査で具体化させようと試みる。そしてそれぞれの事件で行為者と責任者を個別化し、すでに死亡した被告に対する刑事責任の可能性を解決する。 [...]人道に対する犯罪のカテゴリーは、基本的かつ基礎的な原則から始まる。これらの行動は、生命、完全性、尊厳、自由など市民社会が構成されている柱や法治国家そのもの、最も基本的な権利において人間に属するものを最も残忍な形で攻撃する[64]

2008年10月16日、国家裁判所第5号中央裁判所決定[63]

そののち、同年11月18日、同裁判所は死亡認定の後、その責任を消滅させることを決定した[65]
Exhumacion (墓の掘り起こし)戦没者の谷にあったフランコの墓「en:Exhumation and reburial of Francisco Franco」を参照

2018年8月24日、スペイン政府は内戦犠牲者から離れた別の場所へと墓を移動させるため、戦没者の谷(Valle de los Caidos)からフランコの遺骸を改葬する法案を承認した。ペドロ・サンチェス首相は2007年に承認された歴史記憶法(la Ley de memoria historica)の適用に基づき、国際組織からの勧告同様、民主国家に独裁者を高く評価する公的建造物が存在する必要があるとは思わないとした[66]

2018年9月13日、下院議会は政府が提示した法案を検証した。PSOEウニードス・ポデモスPNV、ERC、PDeCAT、コンプロミス、EH Bildu、カナリア連合と新カナリアらによる172の賛成票を受けて可決された[67][68]

2019年6月4日、最高裁判所は棺の掘り起こしに反対する同総統の子孫による上訴が検討されている間、掘り起こしを一時中断する判断を下したが[69]、訴えは退けられ[70]、10月24日、掘り起こされた遺体は戦没者の谷から移送され、ミンゴルビオ墓地にある総統の妻の墓のそばに再埋葬された[71]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 1958年の "Agenda de Rivara"として知られている回避事例では、その金額は700億ペセタにも上った。

出典^ スペイン総選挙 フランコ独裁以来の「極右」国政参画か、焦点に
^ “スペイン最高裁、フランコ総統の遺体掘り起こし認める”. AFPBB News (2019年9月24日). 2020年7月21日閲覧。
^ 色摩 2000, pp. 16?17.
^ Payne, Stanley G.; Palacios, Jesus (24 November 2014). Franco: A Personal and Political Biography. Madison: en:The University of Wisconsin Press. p. 263. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-0-299-30210-8. https://books.google.es/books?id=rn6aBAAAQBAJ&pg=PA263 
^ 川成洋「フェロール時代のフランシスコ・フランコ」/ 坂東省次桑原真夫・湯浅武和編著『スペインのガルシアを知るための50章』明石書店 2012年 72-73ページ
^ P. Preston, Franco. A Biography, New York 1994, p.1.
^ 色摩 2000, p. 18.
^ 色摩 2000, p. 30.


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