フランシスコ・フランコ・バハモンデ
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1936年から1975年まで[1]長期独裁を敷いたことで知られる[2]
生涯
軍人として

フランコは、スペイン北西部ガリシア地方エル・フェロルで生まれた。エル・フェロルは海軍基地のある町で、父も祖父も海軍の軍人であった[3]。出生時の洗礼名はフランシスコ・パウリーノ・エルメネヒルド・テオドゥロ・フランコ・バアモンデ・サルガード=アラウホ・イ・パルド・デ・ラマ(Francisco Paulino Hermenegildo Teodulo Franco Bahamonde Salgado-Araujo y Pardo de Lama)[4]。彼は5人の兄弟の二男で、兄ニコラス(スペイン語版)、妹二人(ピラール(スペイン語版)、マリア・デ・ラ・パス)、弟ラモンがいた。祖父と父は海軍主計准将までなっている[5]。母を人生の師としていた。フランコもバアモンデもスペインでは一般にユダヤ系の姓であり、フランコをユダヤ系と見なす向きもある[6]

父や祖父と同じ海軍を志望していたが、軍縮で海軍が募集を中止したため、1907年にトレド陸軍歩兵士官学校に入学した。1910年に卒業すると少尉となった[7]。1912年にはモロッコに着任した[8]スペイン領モロッコでは原住民の反乱が頻発していた[9]。フランコはここで順調に昇進し[10]、1926年には准将となった。33歳の将官は、当時の欧州では最年少であった[11]。1934年にアストゥリアス地方で革命運動が起きると、フランコはモロッコ駐留軍も投入して鎮圧した[12]。その翌年の1935年には陸軍参謀総長となった[13]
スペイン内戦詳細は「スペイン内戦」を参照

1936年2月の選挙で左派が辛勝、フランコは参謀総長を解任され、カナリア諸島司令官に左遷された[14]。人民戦線政府は社会主義的理念に基づく改革を実行、教会財産を没収し、ブルジョワに対する締め付けを強めた。これは農民労働者層に支持されたが、地主資本家カトリック教会などの保守勢力や知識層とは対立した。

同年7月にモロッコで駐留軍が決起、フランコは同地に飛んで指揮権を掌握し[15]、モロッコ部隊を本土に輸送した[16]。この反乱はスペインを二分する大規模な内戦に発展した。人民戦線政府により反乱軍(Bando sublevado)と呼ばれた勢力(「国民軍(英語版)」 Bando nacional を自称した)の中心人物は当初ホセ・サンフルホ(スペイン語版、英語版)将軍やエミリオ・モラ(スペイン語版、英語版)将軍などであり、フランコは反乱側の一指揮官でしかなかった。ホセ・サンフルホが1936年に飛行機事故で死亡し、緒戦で反乱軍は敗北を重ねるなど長期化の様相を見せ始めると、戦功のあるフランコと、戦前から人望が高かったモラが反乱側の人気を二分するようになる。その後モラも飛行機の墜落事故で死亡すると、フランコが反乱軍の指導者としての地位を固めた。
総統就任

1936年10月1日、ブルゴスにおいて反乱軍の総司令官に指名され、(一方的な)国家元首に就任した。その際フランコは、軍総司令官として大元帥(Generalisimo、総帥とも訳される。軍における最終階級は陸海空元帥(英語版))、国家元首としてカウディーリョ・デ・エスパーニャ(Caudillo de Espana、以下総統)の称号を用いた。また、仮政府として「国家行政委員会」を設置、1938年1月30日にこれを改組して正式に内閣制度を導入、そのトップとなった。
スペイン統一総統たるフランコの紋章

その後、フランコはドイツイタリアポルトガル[17]の支援を受けて、共和派勢力と戦った。反乱軍の主力は陸軍で、空・海軍の大部分は共和国側についたため反乱軍はモロッコ駐留軍を本土に送ることができなかった。フランコは状況を打開するために独伊政府に協力を仰ぎ、それを承諾した両国は輸送機をモロッコに派遣し現地の反乱軍部隊をスペイン本土へ空輸した。また日本はドイツとイタリアに次いでフランコ政権を承認した列強であり、フランコ政権が満洲国を承認したのはその見返りであるとされている。

なお、フランコに対する人民戦線政府は内部に共和主義者共産主義者無政府主義者を抱えていたため、統一性に欠けた。フランスは当初人民戦線を支援したものの国内の反発で即座に中止、また人民戦線はソ連や国際旅団(イギリスやアメリカなど各国の義勇兵)の支援を受けるも、独伊軍、そして両国の政府からの強力な支援を受ける反乱軍に対する劣勢は覆せなかった。

1938年の3月、反乱軍はアラゴン攻勢(英語版)を開始し、4月には地中海に到達して共和国の支配地域を南北に分断する事に成功した。この危機的状況を打破するために共和国側が7月25日に仕掛けた大攻勢「エブロ川の戦い(英語版)」が失敗に終わったことで、フランコの勝利が決定的になった。同年暮れから国際旅団の中心地となっていたカタルーニャ地方に総攻撃を開始、翌1939年1月にはバルセロナが陥落、3月27日マドリードが陥落したことにより人民戦線政府は崩壊、31日にはスペイン全土を制圧、4月1日にフランコは内戦終結宣言を発した。これによりスペインの混乱は一応の終息を迎えたが、内戦によって軍民合わせて数十万人が死亡し、国土の荒廃も著しかった。フランコには同年8月8日に公布された「国家元首法」によって緊急立法権が付与され、強大な権限を持って国家の再建に取り組むこととなる。
第二次世界大戦
枢軸国寄りの「中立」「第二次世界大戦下のスペイン」も参照妻とともに地方視察を行うフランコ(1940年)ハインリヒ・ヒムラーとともに(1940年)

内戦終結直前の1939年3月27日、フランコは日独伊防共協定に加入し、同年5月には国際連盟から脱退した[18]。一方、9月に第二次世界大戦が勃発すると、フランコは国家が内戦により荒廃したために国力が参戦に耐えられないと判断して中立を宣言した。しかし緒戦におけるドイツの勝利や優勢を見て、1940年6月10日イタリアの参戦直後に中立を放棄、非交戦を宣言した。これによって枢軸国側に近づき、情報提供、独伊艦船への補給などで便宜を図った。非交戦宣言より数日後には国際管理都市であったタンジェに侵攻、11月これをスペイン領モロッコの一部として併合した。並行してフランコは対英戦参戦の準備を行い、イギリス降伏直前の一週間にスペインが参戦することで、講和・戦後処理会議における発言権を確保しようと思考した。


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