フランシスコ・フランコ・バハモンデ
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政治学者で歴史家のアルベルト・レイグ・タピア(Alberto Reig Tapia)によれば、フランコは政治的・イデオロギー的に「否定的な特徴」、すなわち「反=自由主義」、「反=フリーメーソン」、「反=マルクス主義」などで定義されているとする[42][43]。これは彼がスペインをこれらの「危機[44]」から救うために選ばれたというフランコの信念と一致する。イデオロギーそのものは定義されていないが、閉ざされた個人的な性質をさらに考えて行くことは困難である[45]

フランコ自身による1930年代の議会政治の否認はよく知られており[46]、その主な強迫観念はスペイン権益に対する「インターナショナル(自由主義)」、「ユダヤ―フリーメーソン」、「共産主義(マルクス主義)」、の陰謀の想定にあった[47]。「軍の世界」と「鉄の宗教」に関するものに敬意を表し、陰謀の恐怖と結びつけた[48]。 彼は武装勢力の指導者として任命されて以来、大衆の声を聞き、ほぼ日常的にロザリオを掲げて祈り、イデオロギー的枠組みを得ていた[49]。実際、フランコ政権において軍は常に重要な役割を果たし、カトリック教会は積極的に道徳的正当性を提供し、社会規範をモデル化しようと努めた[50]

バルセロナの歴史学者ハビエル・トゥセル(Javier Tusell)は「明確なイデオロギーが存在しないからこそ、フランコ政権は独裁から他のものへと移行することができ、40年代はファシズム、60年代には発展主義へと移りかわった[51][52]」と述べた。

また、英国の歴史家ポール・プレストン(Paul Preston)は、「フランコの歴史についての最も重要なポイントは、スペインが驚くほど簡単に民主主義を選び、スペインの未来における独裁者の計画を隅に追いやったことだ[53]」とした。その著作Caudillo de Espanaでは「フランコはその死まで、市民戦争での勝者と敗者の間で恨み深い分裂を維持[53]」し、「1936年から1939年までの市民戦争の無慈悲な戦争努力によって左派の敵の殲滅を追い求め、後に彼の「鉄の意志」が生き残ったことは忘れてはいなかった[54]」と述べた。つづけて「フランコ独自の特徴は、本能的に狡猾で冷酷な冷静さと気難しさを持ちあわせ、政権の力関係でライバルを操り、ラモン・セラーノ・スニェール(Serrano Suner)からバルセロナ伯ドン・ホアン(Don Juan)まで、知性と完全性の面で優れていた人々の挑戦を難なく敗北させたことだった。 フランコの業績は、国家の恩人といった呈のものではなく、常に自分の利益に奉仕した熟練した権力の操縦者のそれであった[54]」と付け加えた。さらにこの著者は「第二次世界大戦中の中立性とスペイン経済の奇跡はフランコのリーダーシップに起因するものではない。フランコが1945年にドン・ホアンに道を開く寛大さと愛国心を持っていたとすれば、スペインはマーシャルプランの恩恵を受け、NATOEECの設立を分かち合うため、立憲君主制になっていたはずだ[55]」と主張している。
独裁政権時代の汚職

フランコ独裁政権時、家族(特に兄ニコラス・フランコ(スペイン語版)、妹ピラール・フランコ(スペイン語版)と彼の娘婿の第10代ビリャベルデ侯爵クリストバル・マルティネス=ボルディウ)において、多くの汚職が存在していた。しかしフランコは取り巻きに政治的な友愛による寛容を訴え、スキャンダルをもみ消していた。これは報道が抑圧され、自由がなかったために可能だった。

たとえば、「マドリレーニャ・金属製造工業事件(Corrupcion en Espana参照)」の場合には、彼の兄弟は閣僚刑事会議で恩赦を受けた。フランコの妹ピラールは未亡人で10人の子供の母だったため適度な年金だけが収入源だったが、にもかかわらず膨大な財産を蓄積した。最終的にピラールはフランコの死までに年金として1250万ペセタを受け取った。

とりわけ、企業ソフィコ(SOFICO)による不動産詐欺、マテッサによる輸出援助詐欺(Caso Matesa)、コンフェクシオン・ジブラルタル事件、400万リットルの国有石油消滅事件(Caso Reace)などは特に重要なスキャンダルだった[56][57]

内戦終結後、破壊や飢饉から国境を越えた闇市場など違法取引が拡大した。その後、経済発展により国は豊かになったが、「パラド宮殿」を中心とする周辺に公式の住居をもついわゆる「パルド一族」の影響を利用していた。一族は蓄積された資本を主にスイスへと回避させた[注釈 1]

ホセ・アントニオ・マルティネス・ソレルは次のように述べている。

「独裁の下ではコンスタントかつ広範な汚職が存在していた」。

フランコ家は「Pazo de Meiras」やガリシアの邸宅「Palacio de Cornide」、マドリード近くの 「El Canto del Pico」といった不動産、建築物など、独裁時代莫大な財産を蓄積した。その財産についてのリサーチ・ブックを出版しているマリアーノ・サンチェス・ソラーによると、その家族は150以上の異なる企業と3600?6000万ユーロにも上る資産を持っていたとされる[58]

2008年、左派政党Unidaは国家への財産権返還要求を議会に法案として提出したが、最終的に当時の社会労働党(PSOE)政権は、それは「文化的関心事」であるし、市民による訪問は許可されるものの(その所有は)フランコ家の権限にとどまるとした。この件に関して、保守政党の国民党(PP)は提示されたイニシアチブのいずれにも反対した。
フランコ没後のスペイン
王政復古と民主化

1975年にフランコが亡くなると、彼の遺言どおりにスペインにボルボン王朝が復活した。国王に即位したフアン・カルロス1世は、彼のもとで帝王学の教育を受けていたこともあり、そのまま独裁政治を受け継ぐかと思われたが、一転して政治の民主化を推し進め、西欧型の自由主義国家への転換を図った。1977年には41年ぶりに総選挙が行われ、1978年に新憲法が承認されてスペインは立憲君主制国家として再建された。

フランコの一人娘であるカルメン・フランコ・イ・ポールは王政復古直後にフランコ女公爵に叙位された[59]
歴史の記憶法サンタンデール市のフランコ像(2006年)

2007年10月31日、スペイン下院議会はスペイン内戦とフランコ政権下の犠牲者の名誉回復、公の場でのフランコ崇拝の禁止などを盛り込んだ「内乱と独裁期に迫害と暴力を受けた人々のための権利承認と措置を定めた法(La Ley por la que se reconocen y amplian derechos y se establecen medidas en favor de quienes padecieron persecucion o violencia durante la Guerra Civil y la Dictadura)」、通称「歴史の記憶法(スペイン語版)」を与党社会労働党などの賛成多数で可決(Historical Memory Bill)。同年、上院でも可決成立した。

2008年10月より、「歴史の記憶法」に基づき、バルタサール・ガルソン予審判事は内戦被害者調査に着手。10月には、スペイン内戦中とフランコ政権初期に、反乱軍によって住民が虐殺されるなどの人道に対する罪戦争犯罪が行われたとして、スペイン全土に1,400か所あると思われる犠牲者が埋められている集団墓地の発掘や関係者の訴追など、人道犯罪調査を行うと発表した。一方、ハビエル・サラゴサ検事局長は、1977年に制定された特赦法「移行協定」により恩赦が成立しているとして、フランコ政権下の犯罪はすべて免責されているとの立場を示し、対立が起きた。

10月16日、ガルソン判事は、内戦中及び独裁政権時代に住民の殺害や拉致を命じたとして、すでに死去しているフランコ以下35人の政権要人を、人道に対する罪等で起訴した。

11月6日、ガルソン判事の調査が終了し、全国25カ所の集団墓地からの犠牲者発掘を命じた。翌7日、サラゴサ検事は案件は全国管区裁判所の管轄外だとして異議申し立てを行い、これを受けて11月28日、全管裁刑事法廷は集団墓地からの遺体発掘命令を停止すると決定した。同法廷のペドラサ判事は異議申し立ての処理が終了するまでガルソン判事の発掘命令とフランコ裁判を中止すべきと要請、同法廷全体会議にかけられ、これが認められた[60]


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