フランシスコ・フランコ・バハモンデ
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その後、フランコはドイツイタリアポルトガル[17]の支援を受けて、共和派勢力と戦った。反乱軍の主力は陸軍で、空・海軍の大部分は共和国側についたため反乱軍はモロッコ駐留軍を本土に送ることができなかった。フランコは状況を打開するために独伊政府に協力を仰ぎ、それを承諾した両国は輸送機をモロッコに派遣し現地の反乱軍部隊をスペイン本土へ空輸した。また日本はドイツとイタリアに次いでフランコ政権を承認した列強であり、フランコ政権が満洲国を承認したのはその見返りであるとされている。

なお、フランコに対する人民戦線政府は内部に共和主義者共産主義者無政府主義者を抱えていたため、統一性に欠けた。フランスは当初人民戦線を支援したものの国内の反発で即座に中止、また人民戦線はソ連や国際旅団(イギリスやアメリカなど各国の義勇兵)の支援を受けるも、独伊軍、そして両国の政府からの強力な支援を受ける反乱軍に対する劣勢は覆せなかった。

1938年の3月、反乱軍はアラゴン攻勢(英語版)を開始し、4月には地中海に到達して共和国の支配地域を南北に分断する事に成功した。この危機的状況を打破するために共和国側が7月25日に仕掛けた大攻勢「エブロ川の戦い(英語版)」が失敗に終わったことで、フランコの勝利が決定的になった。同年暮れから国際旅団の中心地となっていたカタルーニャ地方に総攻撃を開始、翌1939年1月にはバルセロナが陥落、3月27日マドリードが陥落したことにより人民戦線政府は崩壊、31日にはスペイン全土を制圧、4月1日にフランコは内戦終結宣言を発した。これによりスペインの混乱は一応の終息を迎えたが、内戦によって軍民合わせて数十万人が死亡し、国土の荒廃も著しかった。フランコには同年8月8日に公布された「国家元首法」によって緊急立法権が付与され、強大な権限を持って国家の再建に取り組むこととなる。
第二次世界大戦
枢軸国寄りの「中立」「第二次世界大戦下のスペイン」も参照妻とともに地方視察を行うフランコ(1940年)ハインリヒ・ヒムラーとともに(1940年)

内戦終結直前の1939年3月27日、フランコは日独伊防共協定に加入し、同年5月には国際連盟から脱退した[18]。一方、9月に第二次世界大戦が勃発すると、フランコは国家が内戦により荒廃したために国力が参戦に耐えられないと判断して中立を宣言した。しかし緒戦におけるドイツの勝利や優勢を見て、1940年6月10日イタリアの参戦直後に中立を放棄、非交戦を宣言した。これによって枢軸国側に近づき、情報提供、独伊艦船への補給などで便宜を図った。非交戦宣言より数日後には国際管理都市であったタンジェに侵攻、11月これをスペイン領モロッコの一部として併合した。並行してフランコは対英戦参戦の準備を行い、イギリス降伏直前の一週間にスペインが参戦することで、講和・戦後処理会議における発言権を確保しようと思考した。同時に独英休戦の仲介をすることで、ジブラルタルと北アフリカの領土要求をドイツに認めさせようとしたのだが、アドルフ・ヒトラーの反応は冷淡だった[19]

ドイツがフランス全土を占領し、連合軍がヨーロッパ大陸から追い出された直後の1940年10月、ヒトラーとアンダイエ会談し、その蜜月関係を世界中に対し誇示した。ヒトラーはスペインの領土要求に対し、仏領北アフリカの大幅割譲はできないとしながら、対英戦後の英国植民地処理で代償が与えられるので領土調整は可能と述べた。フランコはこの時ヒトラーが要求した英領ジブラルタル攻略作戦(フェリックス作戦)のための地上ルート提供や、独伊鋼鉄同盟参加と将来的な日独伊三国同盟への参加を約束し、条件として軍事・経済の「莫大な戦略物資」を要求しつつ、参戦の意思を宣誓した[20]。しかし、バトル・オブ・ブリテンや地中海戦線、特にギリシャ戦線でのイギリス有利な状況と、経済的な英米との依存関係はフランコの参戦意欲を減退させ、翌年に彼はこの合意を無効とし[21]、その後も参戦要求をのらりくらりとかわし続けた。

一方でヒトラーがバルバロッサ作戦を発動すると、国中の熱狂的なファシスト1万人近くを集めて青師団を創設し、ドイツ国防軍の義勇部隊として東部戦線に送り込んでいる(国内には、ドイツ・イタリアに共感する参戦推進派も存在し、それはフランコから見れば中立政策や国内の安定を危うくしかねない不穏分子とも言えた。その為、両国の好感を得、かつそうした反動分子を一掃する方法として、青の師団の創設・派遣は一石二鳥であった[22])。さらに内戦の経緯もあって、ソ連を仇敵と見なす国内世論とこれまでの自身の言動を無視できない面や内戦期におけるドイツ援助への返礼的意味合いもあった。

1941年12月真珠湾攻撃に際して日本に祝電を送り、アメリカの不興を買った[23]。一方で旧植民地で権益が存在したフィリピンに日本軍が侵攻すると、同地に残る利権の扱いを巡り、両国間で軋轢が生まれた[24]
連合国への傾斜

1943年頃よりヨーロッパおよびアフリカ戦線において完全に連合国が優勢になると、再び中立を固持するという日和見な姿勢に終始した。1944年頃になると、青師団について連合国側各国から非難が集まったためフランコは撤兵を約束、国内に対して反対する者は厳罰に処する、と声明した。さらに太平洋戦線においても日本軍が完全に劣勢となった1945年に起きたマニラの戦いにおいては、在留スペイン人の損害問題を理由に日本と断交した[25]

フランコは第二次世界大戦を次のように見ていた。「世界では全く別の二つの戦争が戦われている。第一にヨーロッパではソ連に対する戦争であり、第二に太平洋では日本に対する戦争である」とし、独米英を含む「全キリスト教世界」は、野蛮で東洋的・共産主義的なロシアを共通の敵として戦うべきであるとした。彼はこの考えに沿って連合国とドイツの講和調停を行った[26]サン・セバスティアンを視察するフランコ(1941年)フランコとカルメン夫人(1968年)

なお、この工作において「アジアにおけるヨーロッパの権益は完全に回復するべきものである」としており、非キリスト教国である日本の要求は考慮に入れていなかった[27]。また、枢軸国の劣勢が明らかとなった1943年7月28日、アメリカに和平調停を申し出たが、その際には駐スペインアメリカ大使カールトン・J・H・ヘイズ(英語版)に対して「彼ら(日本人)は基本的に蛮族である。彼らは最悪の帝国主義者であり、中国および極東全域の支配をもくろんでいる。フィリピンに独立を保証するという彼らの最近の約束は全く信頼できない。スペインは日本に何らのシンパシーを抱いておらず、もし軍事的に弱体でなければ太平洋戦争において喜んでアメリカと協力したいところである」と述べている[28]。しかし、連合国もドイツもスペインの調停には耳を貸さなかった[29][30]

スペインの中立化は隣国のポルトガルのアントニオ・サラザールの影響を大きく受けていたとされ[31][32][33]、フランコはサラザールのことを「私が知っている最も尊敬に値する最も完璧な政治家はサラザールだ」とも評していた[34]


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