フランク王国
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第三子カリベルト1世はパリの王国を、末子キルペリク1世はフランク族の故地を含むベルギー地方を継承した[28][注釈 4]567年には早くもカリベルトが死亡したため、パリの王国は残る3人によって分割され、その首都パリは一種の中立都市となった[28]。これによってキルペリク1世の王国は大西洋沿岸全域を含むようになり、ネウストリア(西王国)と呼ばれるようになった[28]。また、グントラムの分王国はブルグンディアと呼ばれるようになった。575年、ネウストリア王キルペリク1世の妻フレデグンドが刺客を放ちアウストラシア王シギベルト1世を暗殺すると、シギベルト1世の息子、キルデベルト2世(英語版)とその母ブルンヒルドがアウストラシア王位を継承し、三勢力の間で同盟と離反を繰り返す激しい権力闘争が始まった[28]。この争いの中で、フランク王国を構成する3つの分王国の枠組みが形成されていき、旧ローマ世界の枠組みは徐々に喪失していった[28]
王家の争い

版図という意味ではクロタール1世の死亡時がメロヴィング朝で最大の時期であり、以後これを上回る支配地を持つことはなかった[29]。アウストラシア王シギベルト1世は、西ゴート王国の王女ブルンヒルドと結婚した。この繋がりに脅威を感じたキルペリク1世は元の妻を退け、自らも西ゴートの王女でブルンヒルドの姉妹であるガルスヴィンタ(英語版)と結婚した[27]。しかし、キルペリク1世の愛妾フレデグンドはガルスヴィンタを殺害し、自らが王妃の地位に上ったと伝えられている[27]。このため、おそらくブルンヒルドの強い意向のもと、シギベルト1世はキルペリク1世と対立するようになった[27]。これに対してネウストリア王妃となったフレデグンドとキルペリク1世はシギベルト1世の暗殺という対応で応えた[30]アンドロ条約後の所領(587年)クロタール2世は613年までにこの全域を手中にした

ブルンヒルドとシギベルト1世の廷臣たちは、残された幼い王子キルデベルト2世(英語版)をアウストラシア王に選出したが、外国出身の王妃の立場は不安定であった[30]。彼女はやむなくブルグンディア分王国の王グントラムに支援を求めた。息子がいなかったグントラムは要請に応じ、キルデベルト2世を養子とした[30]。さらに、584年にはキルペリク1世も暗殺された。彼もまた、幼い王子クロタール2世を遺したのみであり、フレデグンドもまたグントラムに後見を求め、クロタール2世はグントラムの庇護下に入った。この結果、2人の甥を後見することとなったブルグンディア王グントラムは、587年に仲介者としてアンドロ条約(英語版)を締結させた[30]。この条約によって不透明であった領土上の問題が解決された。また、争いの発端となった王妃ガルスヴィンタ殺害事件のあとに残された彼女の持参財を、姉妹であるブルンヒルドが相続することも定められた[30]。また、グントラムの後継者は養子となったキルデベルト2世であることも決定された[30]

南ガリアでは、クロタール1世の遺児を自称するグンドワルドゥス(英語版)が王位を主張して勢力を拡大した。コンスタンティノープルからやってきた彼は、東ローマ帝国の支配をこの地に及ぼすための使者ではないかという見方が広まり、そのことがボルドー司教ベルトラムヌス(英語版)をはじめとした多数の有力者が彼の陣営に馳せ参じる原因となった[31]。結局、この僭称者はグントラムが派遣した軍隊によってサン=ベルトラン=ド=コマンジュ(英語版)で討たれた[31]

592年にグントラムが死亡すると、キルデベルト2世がアウストラシアとブルグンディアを相続し、フランク王国の大部分を支配することとなった[30]。一方、クロタール2世はネウストリアを継承した。ところが、早くも596年にキルデベルト2世が死去すると、その息子テウデベルト2世(英語版)がアウストラシアを、テウデリク2世(英語版)がブルグンディアを継承した。当初は祖母ブルンヒルドの監督下に置かれたが、兄弟は不和となり、612年にテウデリク2世はテウデベルト2世を攻めてこれを打ち滅ぼした[32]。この兄弟の争いはネウストリア王クロタール2世に漁夫の利を与えた。アウストラシアの廷臣であったアルヌルフ(英語版)とピピンは、テウデリク2世に対抗するためにクロタール2世の支援を求め、これに応じたクロタール2世の攻撃によって、613年にテウデリク2世とその息子たちは殺害された[32]。クロタール2世はその年、老王妃ブルンヒルドも捕らえて処刑した。これによってフランク王国は半世紀ぶりにただ1人の王、クロタール2世の下に統治されることになった[33]

シギベルト1世、16世紀の作品

キルペリク1世とフレデグンド

ブルンヒルドの処刑

クロタール2世とダゴベルト1世メロヴィング朝フランク王国(600年ごろ)

クロタール2世はただ1人の王となったが、半世紀にもわたる分裂を通じてアウストラシア、ネウストリア、ブルグンディアという枠組みに沿った政治的伝統が確立されており、クロタール2世がネウストリアを軸にして一元的な王国として統合するのは困難であった[34]614年、秩序を再編するためにパリで3つの王国の司教、有力者を集めた集会が開かれた[35][34]。クロタール2世の勝利には、アウストラシアやブルグンディアの貴族勢力が重要な役割を果たしており、彼らの意向を無視することは政治的な冒険であった[34]。このため、アウストラシアとブルグンディアの貴族たちがそれぞれの分王国を宮宰によって自律的に統治することを主張したとき、クロタール2世はこれを拒否することはできなかった[34]。貴族たちが国王大権を認める代わりに、王は貴族や教会の特権を承認した[35]

各分王国の国王の役人は、それぞれの分王国の在地の人間から登用されることが定められ、彼らの不正や横領については自らの財産によって責任を負うことも定められた[35]。この決定は歴史上「パリ勅令(英語版)」の名で知られている[34]。これはしばしば貴族側の地域的利害に対する王権の屈服を示す証拠として歴史学者から取り扱われるが、少なくてもクロタール2世の時代には王権は貴族層を掣肘する実力を有していたと考えられ、むしろ各分王国(特に勝者であるネウストリア)の貴族が無分別にほかの分王国に勢力を拡張するのを防止する処置として当初は構築されたものとされる[34]。クロタール2世の貴族に対する強力な指導力を示す出来事として、ブルグンディアの宮宰ワルカナリウス2世(英語版)が626年に死去した際、その息子が地位を継承することを阻止するために即座に介入を行い、門閥の形成を阻止したことがあげられる[36]。この事件のあと、ブルグンディアは地位的特性は維持したものの、政治的にはネウストリアと一体化し、ネウストリア=ブルグンディア分王国としてその歴史を歩むことになる[36]クロタール2世と幼いダゴベルト1世、14世紀もしくは15世紀の作品

しかし、パリを拠点に全王国を統治したクロタール2世は独自の王の擁立を主張するアウストラシア貴族層の要求に折れ、623年に20歳ごろの息子ダゴベルト1世をアウストラシア王として送り出した[36]。アウストラシアの政界で権力を握ったのは宮宰のピピン1世(大ピピン)とメス司教アルヌルフであった[36]。当時のアウストラシアの脅威はバイエルンのクロドアルド(Chrodoald)であったが、ピピン1世とアルヌルフはダゴベルト1世を巧みに操り、バイエルンの脅威を除くことに成功した[36]


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