フランク王国
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

フランク王国もそのひとつであり、ほかにトゥールーズ(トロサ)を中心とするガリア南部からイベリア半島にかけては西ゴート王国[9]ウォルマティア(ヴォルムス)の周囲にはブルグント王国が形成された[注釈 3]。また、ガリア北西部にはサクソン人が移住したほか、ケルト系ブルトン人ブルターニュ半島に移住を進めつつあった[11]
メロヴィング朝
メロヴィング朝の成立詳細は「メロヴィング朝」を参照

サリー・フランク人たちはローマ文化から多大な影響を受けていた。そのことは1653年トゥルネーで発見されたキルデリク1世(キルデリクス)王の墓の副葬品によって確かめられている[8]ランス司教のレミギウスの書簡によれば、キルデリク1世は第2ベルギカ属州を統治し、司教や諸都市に指示を与えていたとされる[12]。この時期のサリー・フランク人は、西ローマ皇帝マヨリアヌスによりガリア軍司令官に任命されていたアエギディウスと密接な関係を築いた。

ガリアで最大の勢力を築いていた西ゴート族とアエギディウスが戦ったとき、キルデリク1世はアエギディウスの同盟軍として戦った[11]。このキルデリク1世がメロヴィング朝の最初の「歴史的な」王である[13]。メロヴィングという名は、キルデリク1世の父親とされるメロヴィク(メロヴィクス)に由来し、「メロヴィクの子孫」という意味である[14]481/482年から511年まで、クローヴィス1世時代の領土変遷

キルデリク1世の息子がクローヴィス1世である。クローヴィス1世は466年ごろに生まれ、481年もしくは482年に父キルデリク1世の死を受けて「フランク人の王」の地位を継いだ[14]。クローヴィス1世が王位を継承したとき、北ガリアでは、キルデリク1世の同盟者であったガリア軍司令官・アエギディウスの息子であるシアグリウスが「ローマ人の王」と呼ばれ、カンブレー地方からロワール川までの支配権を抑えていた[15]。クローヴィス1世は父親同士が最後まで崩さなかった友好関係を破棄し、北ガリアの覇権をめぐってシアグリウスと争った。486年ソワソンの戦いでクローヴィス1世がシアグリウスを打ち破り、ロワール川流域までフランク族の支配が広がった[15][16]。その後、クローヴィス1世は周辺諸部族との戦いに次々と勝利を収めていく。491年にライン地方でテューリンゲン族(英語版)を撃破して服属させ、496年スイス地方でアレマン人に勝利した[15]トゥールのグレゴリウスの伝えるところによれば、この間にブルグント王・グンドバト(英語版)の姪、クロティルダと結婚した。彼女はカトリック教徒であり、その教化と対アレマン戦での奇跡的な勝機の出現に啓示を得たクローヴィス1世は、従士3,000人とともにランス大司教のレミギウスによってカトリックの洗礼を受けたとされる[15]

クローヴィス1世はさらに507年、ライン・フランク人とブルグント族の支援を受け[17]ヴイエの戦いでガリア最大の勢力であった西ゴート王国に勝利をおさめ、その王アラリック2世を戦死させた[15]。西ゴートを支援する東ゴート王国の介入のために地中海へ到達することは叶わなかったものの[17]、これによりガリア南部(ガリア・アクィタニア)から西ゴートの勢力を駆逐し、イベリア半島へと追いやった[18]。クローヴィス1世の勢力の急激な拡張は、フランク族のほかの王たちとの間に軋轢を生んだ。この段階においても、クローヴィス1世はフランク族の唯一の王であったわけではなかった[19]。クローヴィス1世以外のフランク族の王についての情報は乏しいが、カンブレーを中心とするラグナカール(英語版)、支配地域不明のカラリク(英語版)、ケルンを中心とするシギベルト跛王(英語版)などのフランク王の名が伝えられている[19]。西ゴートをガリアから駆逐したあと、クローヴィス1世は策略によってこれらの王国を奪い取り、ついに唯一のフランク人の王となった[19]。その時期は508年以降であると考えられている[19]。このため、のちにクローヴィス1世は「フランク王国の初代の王」と記録されている[19]

また、西ゴート戦からの凱旋のあと、東ローマ皇帝アナスタシウス1世から西ローマの執政官職(コンスル)への任命状が届けられた[18]。この称号はもはや単なる名誉職に過ぎなかったが、クローヴィス1世の王国が東ローマ皇帝(この時点では唯一のローマ皇帝である)から正式に承認され、フランク王国によるガリア支配がローマの名の下に正当なものであることを意味した[20]。クローヴィス1世はコンスルを自身の正式な称号に付け加えることはなかったが、この事実はガリアに多数住むローマ系住民に強くアピールするものであった[20]。彼は特にローマ系住民の多いガリア南部の支配を確実なものにするためにこの称号を利用したように思われる[20]
分王国クローヴィス1世死亡時の分割相続(511年

クローヴィス1世は511年、パリにあるシテ島の宮廷で歿した[18]。フランク族では分割相続の習慣があった。そのため、クローヴィス1世の死後、その王国はテウデリク1世ランス)、クロドメールオルレアン)、キルデベルト1世パリ)、クロタール1世ソワソン)の4人によって分割された[21]。クローヴィス1世の息子たちはフランク王国の領土をさらに拡大し、フランクは旧西ローマ帝国領内に成立したゲルマン諸国家の覇者となった[21]。テウデリク1世とクロタール1世はサクソン人(ザクセン人)の支援を得てエルベ川からマイン川に至る地域に勢力を持っていたテューリンゲン人の王国を滅ぼし、サクソン人との間で分割した[21][22][23]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:481 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef