フランク王国
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743年 - 751年キルデリク3世(メロヴィング朝最後)
751年 - 768年ピピン3世(カロリング朝初代)
768年 - 814年カール1世フランク・ローマ皇帝
884年 - 887年カール3世(唯一のフランク王となった最後の人物、フランク・ローマ皇帝)

変遷
メロヴィング朝成立5世紀後半
カロリング朝成立751年
カール大帝の戴冠800年
ヴェルダン条約による分割843年
最後の統一終焉887年

通貨ドゥニエ

フランク王国(フランクおうこく、ラテン語: Regnum Francorum, ドイツ語: Frankisches Reich,フランス語: Royaumes francs)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国カール1世カール大帝・シャルルマーニュとも)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランスドイツイタリア北部・オランダベルギールクセンブルクスイスオーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島イタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」「カロリング帝国」などとも呼ばれる。

この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担った。また、歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖別された。これらのことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。

フランク王国はメロヴィング朝カロリング朝という2つの王朝によって統治された。その領土は、成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域(分王国)に分裂しており、統一されている期間はむしろ例外であった。ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成した。

このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築した。
歴史
フランク族の登場と移住

フランク族の名前は西暦3世紀半ばに初めて史料に登場する[1]。記録に残る「フランク(francus または franci)」という言葉のもっとも古い用例は、241年ごろの歴史的事実を踏まえたとされるローマ行軍歌においてである[2]。これは4世紀に書かれた『皇帝列伝』に収録されて現代に伝わっている[2]ローマ人ライン川中流域に居住するゲルマン人たちを一括して「フランク人」と呼んでいた[注釈 1]。3世紀から4世紀にかけて、カマーウィー族(英語版)、ブルクテリ族、カットゥアリー族(英語版)、サリー族、アムシヴァリー族(英語版)、トゥヴァンテース族(英語版)が、ローマ側の史料において「フランク人」と呼ばれている[1]。この呼称はあくまでローマ人側からの呼称であり、この名前で呼ばれたゲルマン人の諸部族が実際に同族意識を持っていたかどうかは不明である[1]ローマ帝国の国境地帯にこれらの諸部族が居住していたことが、彼らを共通の政治的状況に置き、そのことが彼ら自身とローマ人の意識において共族意識を育んだかもしれない[1]


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