フランク永井
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……低音の魅力だね。こりゃあ」というくすぐりを入れていた。他に8代目桂文楽とも交流があり、10代目柳家小三治とはゴルフ友達の間柄であった。小三治の高座では噺のマクラでフランクとの交流が語られることもあった。

また牧伸二も、持ち芸の「ウクレレ漫談」で「フランク永井は低音の魅力、牧伸二は低能の魅力」というネタを披露していた。

日本レコード大賞では大賞を1回、歌唱賞を2回、特別賞を3回受賞している。NHK紅白歌合戦の常連出場者としても知られ、1957年(昭和32年)の第8回から1982年(昭和57年)の第33回まで連続26回出場し、現役出場時は島倉千代子と並んで最多出場者の記録を持っていた。昭和50年代以後も「おまえに」「公園の手品師」「WOMAN」(山下達郎作詞・作曲)などヒット作や話題作を送り出し、1980年代に入ってからも自身の歌の原点であるジャズ・スタンダードを精力的に歌い始めるなど、歌謡界には比較的珍しい非・演歌系の大御所歌手として存在感を示していた。

しかし1983年(昭和58年)の「第34回NHK紅白歌合戦」は落選となった。このことは当時の永井にとって大きなショックだったとも言われ、自身は「今年の紅白は見る気にはなれない」とコメントしていたという。[要出典]その後は自殺未遂事件(後述)の影響で、紅白歌合戦へのカムバック出演を果たすことはできなかった。
自殺未遂

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出典検索?: "フランク永井" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2013年5月)

1985年(昭和60年)10月21日(当時53歳)、自宅の階段でロープを括り首吊り自殺を図る。その数分後に永井夫人によって発見され、発見が早かったこともあり辛うじて一命は取り止めた。だが脳に障害が残り、会話が不自由となったほか、記憶が乏しくなるなどの後遺症を患ってしまう[5]

一時はリハビリ治療によって看護師と冗談が言えるほどにまで回復し、早期復帰の見込みも立った程であった。しかしその後はそれ以上回復しなかったばかりか次第に悪化しはじめる。家族や関係者は四国での転地療養など、様々な方法を試みたものの結局は好転しなかった。やがて周囲も復帰は絶望的と見切りをつけるが、恩師の吉田正だけは最期まで諦めず永井をよく見舞い、周囲にも「フランクに歌わせたい曲がいっぱいあるんだ」と語っていた。

1959年(永井27歳当時)に結婚して以来、愛妻家として知られたが夫婦の間に子供はなかった。四半世紀以上連れ添った夫人は、永井の介護問題および財産問題での親族とのトラブルによる心労からうつ病を患い、[要出典]夫人も1991年にガス自殺を図り一命を取り留めたが、家事はできない健康状態になっていたという[6]。1992年6月21日に永井は夫人と離婚。その後は仙台市から上京した実姉と一緒に暮らしていたが、実姉が高齢であることや金銭的問題から自宅は売却し、実姉とともに有料老人ホームに入居し介護を受けていた。[要出典]自宅跡地はパプアニューギニア大使館となっている[7]
76歳で死去フランク永井展示室がある大崎市松山ふるさと歴史館

2008年平成20年)10月27日、東京の自宅で肺炎のため死去[8]。76歳だった。一般への情報公開前に、葬儀・告別式が密葬で行われた。喪主は実姉が務めた。

戒名は「永徳院道鑑慈調清居士(えいとくいんどうかんじちょうせいこじ)」。身内だけの密葬だったため、2009年2月27日、永井を古くから知る音楽・芸能関係者によって「フランク永井を偲ぶ会」が営まれた[9]

2009年3月2日に出身地である宮城県大崎市の「特別功績者」第1号に選ばれる。特別功績賞は市の名誉市民に準じた業績のあった故人が対象で、2月に創設された。また2009年10月27日には大崎市松山ふるさと歴史館内に、トロフィーやレコード、愛用品などを展示する「フランク永井展示室」がオープンした。2009年3月16日には大崎市松山体育館で「第1回フランク永井歌コンクール」が開催され、以降は毎年3月に開催されるようになった[10]
エピソード

永井は熱烈な
東京讀賣巨人軍ファンとしても知られた。1982年、テレビ番組で「巨人が優勝しなかったら丸坊主になる」と宣言した司会者の徳光和夫(当時日本テレビアナウンサー)が、巨人が中日ドラゴンズに0.5ゲーム差で優勝を逃したため公約通り丸坊主になったのに対し、永井は「徳ちゃん、来年(1983年)優勝すればいいんだよ。オレだって悔しかったんだから」と言って、徳光を慰めた[11]という。なお実際に巨人は翌1983年に優勝している。

ビクターのフランク永井のヒットを受け、テイチクレコードも対抗馬として、ジェームス三木という新人歌手をデビューさせ、懸命に売り出したものの全く芽が出ず、その歌手は歌手を廃業してシナリオライターに転向した。

主な作品有楽町で逢いましょう

本項には代表曲を記載。詳しいディスコグラフィーはフランク永井のディスコグラフィーを参照。

13800円 1957年昭和32年) - 13800円は、当時の大卒初任給の平均額

東京午前三時 1957年(昭和32年)

夜霧の第二国道 1957年(昭和32年)

有楽町で逢いましょう 1957年(昭和32年) - 読売会館に開業した有楽町そごうのキャンペーンソング。本来は三浦洸一の吹き込み予定作だったが、作曲した吉田正の強い希望で永井に回った。

羽田発7時50分 1958年(昭和33年)

街角のギター 1958年(昭和33年)

西銀座駅前 1958年(昭和33年)

こいさんのラブ・コール 1958年(昭和33年)

ラブ・レター 1958年(昭和33年)

俺は淋しいんだ 1958年(昭和33年)

夜霧に消えたチャコ 1959年(昭和34年)

東京ナイト・クラブ 1959年(昭和34年) - 松尾和子とのデュエット曲。

恋夜 1959年(昭和34年)

冷いキッス 1959年(昭和34年)

好き 好き 好き 1960年(昭和35年)

大阪野郎 1960年(昭和35年)

東京カチート 1960年(昭和35年)

君恋し 1961年(昭和36年) - 元は二村定一のヒット曲(1928年(昭和3年))。

悲しみは消えない 1962年(昭和35年)

初恋の詩 1962年(昭和35年)

霧子のタンゴ 1962年(昭和37年)

新東京小唄 1962年(昭和37年)

赤ちゃんは王様だ 1963年(昭和38年)

戦場の恋 1963年(昭和38年)

逢いたくて 1963年(昭和38年)

冬子という女 1964年(昭和39年)

国道18号線 1964年(昭和39年) - 松尾和子とのデュエット曲。

大阪ぐらし 1964年(昭和39年)

悲恋のワルツ 1964年(昭和39年)

恋うた(ラブ・コール) 1964年(昭和39年)

わたしゃ人生大学生 1965年(昭和40年)

妻を恋うる唄 1965年(昭和40年)

かえしておくれ 今すぐに 1965年(昭和40年) - ザ・ピーナッツボニージャックス、市川染五郎(後の松本幸四郎 (9代目))との競作。吉展ちゃん誘拐殺人事件犯人への呼びかけの歌で、犯人逮捕後は封印された(後にCD化されている)。


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