フランク・シナトラ
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なお、スランプの際の1951年11月にナンシーと離婚が成立し、エヴァ・ガードナーと結婚[8]したが、人気復活とともに再発した浮気癖が原因で1957年に離婚している。
復活『地上より永遠に』のシナトラ(1953年)

シナトラはそのまま「過去の存在」となるかと思われたが、1953年にはフレッド・ジンネマン監督の第二次世界大戦前夜のアメリカ軍兵士を描いた文芸映画『地上より永遠に』の脇役であるイタリア系アメリカ人兵士「マッジオ」役に、友人のイーライ・ウォラックなどを退けて抜擢、結果的にこれが大きな転機となった。

これまで主役級ばかりを次々と演じてきたシナトラにとって、脇役の演技は格落ちであり、しかも出演料も安かったにも関わらず、この役にほれ込み相当の運動をおこなった。

イタリア系アメリカ人兵士で明るく陽気で、周囲から仲間はずれにされて虐げられる主人公にいつまでも味方をしたことが仇となり、軍隊内の虐待で惨めに死んで行く兵士を演じ、アカデミー賞助演男優賞を獲得、俳優として奇跡的なカムバックを成し遂げる。

なお、この採用劇のエピソードも、(様々な脚色も含めて)イタリアン・マフィアを描いた映画「ゴッドファーザー」で取り上げられている。
キャピトル期グレース・ケリーとシナトラ(1956年)映画『夜の豹』(1957年より)リタ・ヘイワースとシナトラ(1957年)

相前後して1940年代から契約していたコロムビア・レコードに代わり、当時は新興レーベルだったポピュラー音楽界の有名レーベルであるキャピトル・レコード1952年に専属契約した。

コロムビア・レコード時代の盟友アクセル・ストーダールとのコンビを解消、新たにネルソン・リドルやビリー・メイ、ゴードン・ジェンキンズなどの優れた編曲家が指揮するオーケストラをバックに、円熟した歌唱力でスタンダード曲や、座付き作者とも言うべき作曲家ジミー・ヴァン・ヒューゼンと作詞家サミー・カーンらによる新曲を多数録音した。

こうして1950年代後半のカムバック期にキャピトルから多数送り出されたアルバムは、ジャズ的センスに富んだ質の高いものばかりで、シナトラの最盛期をこの時代とする批評家は多い。またシナトラ+リドルの、シンガーとアレンジャーのコンビネーションは、アメリカのポピュラー音楽史上最高と言われている。

また、当時アメリカで爆発的に普及が進んだテレビジョンにも進出し、1950年から1952年にかけてCBSで「フランク・シナトラ・ショー」と名付けられた音楽ショー番組が放映された。

なおこの頃、ビル・ヘイリー[注釈 1]エルヴィス・プレスリー[注釈 2]などの出現によりロックンロールの人気が高まった。だが、シナトラは10代を中心に人気を獲得したロックンロールに見向きもせず、音楽性はそのままでエンターテイナーとして、大人になったかつてのファン層を手放さないことで人気を維持し続けた。しかし1950年代末になると、当時も人気を誇っていたエルヴィス・プレスリーとテレビで共演し、何曲か共演で披露するなど余裕を見せた。
"シナトラ一家"ディーン・マーティン、サミー・デイヴィスJr.、ピーター・ローフォード、ジョーイ・ビショップとともに(左端がシナトラ)シナトラ一家とともに(1960年)

最盛期であった1950年代後半に、サミー・デイヴィスJr.ディーン・マーティンピーター・ローフォードジョーイ・ビショップらとともにラット・パック(英語版)(Rat Pack、シナトラ一家)を組み、ネバダ州ラスベガスに自らが所有するカジノホテル、「サンズ(Sands)」を中心にツアーを行った。

ちなみに、ラスベガスで遊び惚けるシナトラ達をラット・パックと名付けたのは、女優のローレン・バコールであった。

また、シナトラ一家が総出演した『オーシャンと十一人の仲間』(1960年公開。後にジョージ・クルーニーブラッド・ピットアンディ・ガルシアなどの出演でリバイバルされた『オーシャンズ11(Ocean's Eleven)』のオリジナル)などの映画に出演し高い人気を博した。
反人種差別と公民権運動

公民権運動が徐々に高まりつつあったが、まだまだ人種差別が激しく、多くのホテルがアフリカ系アメリカ人を客として受け入れることを拒んでいた1950年代後半のアメリカで、アフリカ系の血を引いていたサミー・デイヴィスJr.を一家に入れて、シナトラが「サンズ」のショーに出演させることに反対するものが多かった。

しかし、シナトラはデイヴィスJr.の音楽センスを高く評価していた上に、自らが新興移民のイタリア系移民であることから、幼少期から自ら人種差別を受けることも多く人種差別を嫌悪していたため、周囲の反対を押し切ってデイヴィスJr.をシナトラ一家に迎え入れた。またルイ・アームストロングとの共作をはじめ、黒人の音楽センスを高く評価していた。

さらに、当時公民権運動を進めるマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を支援しただけではなく、ラスベガスでも当時人種差別が盛んで、黒人は食べるところからトイレ、さらには住める場所まで制限されていたが、シナトラはそのような差別を行うクラブを敬遠し、また黒人のアーティストにボディーガードをつけるなど様々な対策を行い、次第にシナトラを中心としたミュージシャンを中心にそのような差別は少なくなっていった。


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