フランク・シナトラ
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またこの頃、シナトラは2人の子持ちで、ナンシーと離婚をせずにエヴァ・ガードナーと恋愛関係にあった(さらにエヴァもミッキー・ルーニーと結婚していた)[6]。この不倫は大きなスキャンダルとなり、所属している映画会社のMGM、レコード会社のコロムビア・レコードのいずれからも見放されてしまうという最悪の事態に陥ってしまう。

さらに、MCAからも干されてしまい、苦境に陥ったシナトラはAFTRAに駆け込み交渉し、結果としてMCA側が折れて和解し、晴れてシナトラは芸能界に復帰することができた。
組合活動と赤狩りエヴァ・ガードナーとシナトラ(1951年)

1940年代後半にハリウッドをも覆った「赤狩り」にシナトラも巻き込まれた。アメリカでは映画会社の不当な拘束に対して、俳優たちがSAGという俳優労組を結成しており、シナトラはこれに所属していた。またジョージ・エヴァンスの影響で民主党支持者であった。

さらにアメリカでは新興移民かつ少数民族であるイタリア系であり、さらに当時当たり前とされた黒人に対する人種差別に批判的なスタンスで、「アメリカ民主青年同盟」や「進歩的アメリカ市民連盟」といった「進歩的左翼組織」と縁が深かった[7]ことで、1946年1月に下院非米活動委員会でシナトラが「共産主義者の看板として行動している」として非難されたほか、「容共的」であるという疑惑をマスコミに持たれ、1950年になるとついにはワシントンD.Cアメリカ合衆国国防総省に呼ばれた。

しかし、ジョセフ・マッカーシー上院議員率いる非米活動委員会への召喚は免れ、疑惑を受けただけで疑いは晴れたが、同時期の朝鮮戦争への慰問部隊には過去の政治活動を理由として選ばれなかった。なお、この時「容共的」との疑惑を持たれたことから、これ以降ジョン・F・ケネディリチャード・ニクソンなどの反共的な政治家と親密になるが、人種差別に対して批判的なスタンスは変わらなかった。

なお、スランプの際の1951年11月にナンシーと離婚が成立し、エヴァ・ガードナーと結婚[8]したが、人気復活とともに再発した浮気癖が原因で1957年に離婚している。
復活『地上より永遠に』のシナトラ(1953年)

シナトラはそのまま「過去の存在」となるかと思われたが、1953年にはフレッド・ジンネマン監督の第二次世界大戦前夜のアメリカ軍兵士を描いた文芸映画『地上より永遠に』の脇役であるイタリア系アメリカ人兵士「マッジオ」役に、友人のイーライ・ウォラックなどを退けて抜擢、結果的にこれが大きな転機となった。

これまで主役級ばかりを次々と演じてきたシナトラにとって、脇役の演技は格落ちであり、しかも出演料も安かったにも関わらず、この役にほれ込み相当の運動をおこなった。

イタリア系アメリカ人兵士で明るく陽気で、周囲から仲間はずれにされて虐げられる主人公にいつまでも味方をしたことが仇となり、軍隊内の虐待で惨めに死んで行く兵士を演じ、アカデミー賞助演男優賞を獲得、俳優として奇跡的なカムバックを成し遂げる。

なお、この採用劇のエピソードも、(様々な脚色も含めて)イタリアン・マフィアを描いた映画「ゴッドファーザー」で取り上げられている。
キャピトル期グレース・ケリーとシナトラ(1956年)映画『夜の豹』(1957年より)リタ・ヘイワースとシナトラ(1957年)

相前後して1940年代から契約していたコロムビア・レコードに代わり、当時は新興レーベルだったポピュラー音楽界の有名レーベルであるキャピトル・レコード1952年に専属契約した。

コロムビア・レコード時代の盟友アクセル・ストーダールとのコンビを解消、新たにネルソン・リドルやビリー・メイ、ゴードン・ジェンキンズなどの優れた編曲家が指揮するオーケストラをバックに、円熟した歌唱力でスタンダード曲や、座付き作者とも言うべき作曲家ジミー・ヴァン・ヒューゼンと作詞家サミー・カーンらによる新曲を多数録音した。

こうして1950年代後半のカムバック期にキャピトルから多数送り出されたアルバムは、ジャズ的センスに富んだ質の高いものばかりで、シナトラの最盛期をこの時代とする批評家は多い。またシナトラ+リドルの、シンガーとアレンジャーのコンビネーションは、アメリカのポピュラー音楽史上最高と言われている。

また、当時アメリカで爆発的に普及が進んだテレビジョンにも進出し、1950年から1952年にかけてCBSで「フランク・シナトラ・ショー」と名付けられた音楽ショー番組が放映された。

なおこの頃、ビル・ヘイリー[注釈 1]エルヴィス・プレスリー[注釈 2]などの出現によりロックンロールの人気が高まった。だが、シナトラは10代を中心に人気を獲得したロックンロールに見向きもせず、音楽性はそのままでエンターテイナーとして、大人になったかつてのファン層を手放さないことで人気を維持し続けた。しかし1950年代末になると、当時も人気を誇っていたエルヴィス・プレスリーとテレビで共演し、何曲か共演で披露するなど余裕を見せた。
"シナトラ一家"ディーン・マーティン、サミー・デイヴィスJr.、ピーター・ローフォード、ジョーイ・ビショップとともに(左端がシナトラ)シナトラ一家とともに(1960年)

最盛期であった1950年代後半に、サミー・デイヴィスJr.ディーン・マーティンピーター・ローフォードジョーイ・ビショップらとともにラット・パック(英語版)(Rat Pack、シナトラ一家)を組み、ネバダ州ラスベガスに自らが所有するカジノホテル、「サンズ(Sands)」を中心にツアーを行った。


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