フランク・シナトラ
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大戦中の1942年には、弁護士を介してトミー・ドーシーよりMCA(芸能エージェント)に6万ドルで契約が移されたが、この時もシナトラに一生分のギャラの1部を払うように要求したトミー・ドーシーに対して、「マフィア的」なやり方をおこなったお蔭だと噂が流され、さも真実であるかのように喧伝された[5]。しかし芸能組合が仲介に入り、前述の移籍料と1か月間の休養を取ることで決着した。
アイドル的人気

その後、ベニー・グッドマンとニューヨークのパラマウント・シアターで公演を行い、女性ファンから大人気を得た。アメリカ全土から男性の若者が戦場に赴いたこの時代、広報担当のジョージ・エヴァンスのおかげもあり、若々しい歌声のシナトラは10代の「ボビーソクサー(女学生たち)のアイドル」と呼ばれた。ニューヨークのパラマウント・シアターでの公演では、観客の女性に興奮のあまり気絶し失禁する者すら出たという。

しかしかえって若い男性からの人気は低く、ニューヨークの劇場の看板のシナトラの顔写真に、これから戦場へ向かう兵士に卵をぶつけられるのが流行った程であった。また1944年には、生まれた息子(フランクリン)の名付け親である、民主党のフランクリン・D・ルーズベルト大統領の選挙キャンペーンに協力した。
スランプ

しかし戦時下における熱狂的な人気の反動と、「ボビーソクサー」も年を重ねたこともあり、第二次世界大戦が1945年に終戦した後の1940年代後半から一時人気が低迷した。さらにシナトラと、当時人気が出てきたコロムビア・レコードのミッチ・ミラーとの音楽的対立も拍車をかけた。

さらに1947年には、シナトラの事を書き立てる芸能ジャーナリストのリー・モーティマーと、ロサンゼルスのナイトクラブ「シロス」で鉢合わせになり殴り倒した。逮捕はされはなかったものの、罰金9,000ドルを支払うよう、治安判事裁判所から命令された。しかもこの際にモーティマーに対して脅しまがいの電話をかけたとして告発されるなど、この手のトラブルが増え、シナトラのイメージを損なった。1950年には、歌手にとっては一番大切な喉の疾患で一時声が出なくなりスランプに陥った。

またこの頃、シナトラは2人の子持ちで、ナンシーと離婚をせずにエヴァ・ガードナーと恋愛関係にあった(さらにエヴァもミッキー・ルーニーと結婚していた)[6]。この不倫は大きなスキャンダルとなり、所属している映画会社のMGM、レコード会社のコロムビア・レコードのいずれからも見放されてしまうという最悪の事態に陥ってしまう。

さらに、MCAからも干されてしまい、苦境に陥ったシナトラはAFTRAに駆け込み交渉し、結果としてMCA側が折れて和解し、晴れてシナトラは芸能界に復帰することができた。
組合活動と赤狩りエヴァ・ガードナーとシナトラ(1951年)

1940年代後半にハリウッドをも覆った「赤狩り」にシナトラも巻き込まれた。アメリカでは映画会社の不当な拘束に対して、俳優たちがSAGという俳優労組を結成しており、シナトラはこれに所属していた。またジョージ・エヴァンスの影響で民主党支持者であった。

さらにアメリカでは新興移民かつ少数民族であるイタリア系であり、さらに当時当たり前とされた黒人に対する人種差別に批判的なスタンスで、「アメリカ民主青年同盟」や「進歩的アメリカ市民連盟」といった「進歩的左翼組織」と縁が深かった[7]ことで、1946年1月に下院非米活動委員会でシナトラが「共産主義者の看板として行動している」として非難されたほか、「容共的」であるという疑惑をマスコミに持たれ、1950年になるとついにはワシントンD.Cアメリカ合衆国国防総省に呼ばれた。

しかし、ジョセフ・マッカーシー上院議員率いる非米活動委員会への召喚は免れ、疑惑を受けただけで疑いは晴れたが、同時期の朝鮮戦争への慰問部隊には過去の政治活動を理由として選ばれなかった。なお、この時「容共的」との疑惑を持たれたことから、これ以降ジョン・F・ケネディリチャード・ニクソンなどの反共的な政治家と親密になるが、人種差別に対して批判的なスタンスは変わらなかった。

なお、スランプの際の1951年11月にナンシーと離婚が成立し、エヴァ・ガードナーと結婚[8]したが、人気復活とともに再発した浮気癖が原因で1957年に離婚している。
復活『地上より永遠に』のシナトラ(1953年)

シナトラはそのまま「過去の存在」となるかと思われたが、1953年にはフレッド・ジンネマン監督の第二次世界大戦前夜のアメリカ軍兵士を描いた文芸映画『地上より永遠に』の脇役であるイタリア系アメリカ人兵士「マッジオ」役に、友人のイーライ・ウォラックなどを退けて抜擢、結果的にこれが大きな転機となった。

これまで主役級ばかりを次々と演じてきたシナトラにとって、脇役の演技は格落ちであり、しかも出演料も安かったにも関わらず、この役にほれ込み相当の運動をおこなった。

イタリア系アメリカ人兵士で明るく陽気で、周囲から仲間はずれにされて虐げられる主人公にいつまでも味方をしたことが仇となり、軍隊内の虐待で惨めに死んで行く兵士を演じ、アカデミー賞助演男優賞を獲得、俳優として奇跡的なカムバックを成し遂げる。

なお、この採用劇のエピソードも、(様々な脚色も含めて)イタリアン・マフィアを描いた映画「ゴッドファーザー」で取り上げられている。
キャピトル期グレース・ケリーとシナトラ(1956年)映画『夜の豹』(1957年より)リタ・ヘイワースとシナトラ(1957年)

相前後して1940年代から契約していたコロムビア・レコードに代わり、当時は新興レーベルだったポピュラー音楽界の有名レーベルであるキャピトル・レコード1952年に専属契約した。


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