フランク・シナトラ
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その後カトリックとしての洗礼を受ける[2]。少年期に音楽に興味を持ち始め、1930年代初頭、当時ラジオで人気を得ていたビング・クロスビーの歌声に憧れて歌手を志す。

全米が大恐慌の荒波に巻き込まれた1920年代末から1930年代において、父がニューヨークの消防局に勤めていた上に、ドリーも助産婦として安定した収入があったお陰で、十分に恵まれた少年時代を送ることができた[3]。この頃マイクを使うようになり、マイクのおかげで大きい声を出す必要がなく、情感を出すクルーナースタイルを習得していく。
プロデビュー「ホーボーケン・フォア」時代のシナトラ(右端/ 1935年)ニュージャージーのレストラン「ラスティック・キャビン」で歌うシナトラ(1938年)

1935年、20歳の時に地元のイタリア人ボーカルトリオ「ザ・スリー・フラッシズ」に参加、「ホーボーケン・フォア」としてラジオ出演や、西海岸を含む全米巡業(ただし他のグループ・コメディアンも一緒の一座であり、レストランなどの店頭などで歌った)などを行い、後にソロ活動を行うために脱退した。

その後バーのラウンジで歌っていたところを見出され、1939年には当時大衆的な人気が高かったトランペッター、ハリー・ジェイムスの楽団「ミュージック・メイカーズ」の専属歌手としてビクターよりプロデビューした[4]。その歌唱スタイルはクロスビーの影響下にあるクルーナースタイルであった。
初婚

なお、この頃よりニュージャージー州やニューヨーク州イリノイ州など東海岸を主な拠点とし、地元のレストランなどを牛耳っていたイタリア系マフィアとの関係が深かったといわれている。また、1937年に警察に初めて逮捕されている。

1939年に、シナトラは同じイタリア系アメリカ人のナンシー・バルバートと4年間の交際の末に結婚した。ちなみに、彼女は有力なマフィアのジェノヴェーゼ・ファミリーの副ボスであるウィリー・モレッティと縁のある人物のいとこであった。
高まる人気

この頃ニューヨークで正式な歌唱法を学び、またラジオ番組に多数出演することでファンを増やしていった。1940年には、やはり人気のあったトロンボーン奏者トミー・ドーシーオーケストラに引き抜かれ移籍して大活躍、アメリカの10代の女性を中心にシナトラへの人気を決定的なものとした。

なお、「ミュージック・メイカーズ」からの移籍にまつわるエピソードが、後にマフィアを描いた映画「ゴッドファーザー」で「(マフィアが)バンドリーダーの頭に銃を突き付け、1,000ドルの移籍金で話をまとめた」として取り上げられている。

しかし、音楽的にリーダーのトミー・ドーシーによる滑らかなトロンボーン・プレイを研究し、自らの歌い回しに取り込み、また、世界で最初にマイクロフォンをマイクスタンドから取り外して歌うなど、マイクロフォンの特性をいかして自らの楽器とし、エレガントで巧みな歌唱テクニックは、既にこの頃から発揮されていた。

この頃、多くのスターを抱え、映画会社として黄金時代を迎えていたメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)のミュージカル映画にも(演技はさして巧くないものの歌手としての才能を見込まれて)多数主演し、後にスタンダード・ナンバーとして記憶される曲を多く歌っている。なお、1940年に最初の娘であるナンシーが生まれた。
第二次世界大戦中第二次世界大戦中のAFRS時代のシナトラ(左端)とダイナ・ショア(中央・右)、ビング・クロスビー(右端)ラナ・ターナーと(1944年)

1941年12月の日本との間の開戦をきっかけにアメリカも参戦した第二次世界大戦では、多くの若者が兵士として徴兵された。シナトラも兵役を自ら志願したが、前記の通りシナトラは出生時の医療過誤のため鼓膜が破れており、2度も兵役不合格となった。

その為、AFRS(American Forces Radio Service = アメリカ軍ラジオサービス)や慰問部隊の歌手の1人として、アメリカ全土の基地やヨーロッパ各地の前線を回ると同時に、レコードのリリースや戦意高揚のためのプロパガンダ映画を含む映画への出演、ビング・クロスビーなどと戦時公債キャンペーンのイベントへの出演を続けた。従って、その歌手としてのキャリアが兵役によって中断されることはなかった。

大戦中の1942年には、弁護士を介してトミー・ドーシーよりMCA(芸能エージェント)に6万ドルで契約が移されたが、この時もシナトラに一生分のギャラの1部を払うように要求したトミー・ドーシーに対して、「マフィア的」なやり方をおこなったお蔭だと噂が流され、さも真実であるかのように喧伝された[5]。しかし芸能組合が仲介に入り、前述の移籍料と1か月間の休養を取ることで決着した。
アイドル的人気

その後、ベニー・グッドマンとニューヨークのパラマウント・シアターで公演を行い、女性ファンから大人気を得た。アメリカ全土から男性の若者が戦場に赴いたこの時代、広報担当のジョージ・エヴァンスのおかげもあり、若々しい歌声のシナトラは10代の「ボビーソクサー(女学生たち)のアイドル」と呼ばれた。ニューヨークのパラマウント・シアターでの公演では、観客の女性に興奮のあまり気絶し失禁する者すら出たという。

しかしかえって若い男性からの人気は低く、ニューヨークの劇場の看板のシナトラの顔写真に、これから戦場へ向かう兵士に卵をぶつけられるのが流行った程であった。また1944年には、生まれた息子(フランクリン)の名付け親である、民主党のフランクリン・D・ルーズベルト大統領の選挙キャンペーンに協力した。
スランプ

しかし戦時下における熱狂的な人気の反動と、「ボビーソクサー」も年を重ねたこともあり、第二次世界大戦が1945年に終戦した後の1940年代後半から一時人気が低迷した。さらにシナトラと、当時人気が出てきたコロムビア・レコードのミッチ・ミラーとの音楽的対立も拍車をかけた。


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