フランク・シナトラ
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ジョンは、これを受けてパームスプリングスの「リトル・ホワイトハウス」と呼ばれた[13]、ケネディを呼ぶことを前提に作られたシナトラ邸への訪問を直前になって断るなど、ロバートとフーヴァーの言いつけを聞き、あからさまに恩人であるシナトラと距離を置いたために、シナトラが激怒し落胆した。さらに連邦議会の公聴会で追及を受けたジアンカーナもシナトラに対し「約束違反だ」と激怒した。

これ以降、ケネディ兄弟との関係が疎遠になっだけでなく、ジョンの側近となっていただけでなく、ケネディ一族との関係を作ったローフォードを「シナトラ一家」から事実上追放することとなった。さらにシナトラは、ジョンとロバートの政敵(しかしかつてはケネディと仲が良かった)で、しかも支持政党を変えて共和党のリチャード・ニクソンと密接な関係を結ぶまでになった。

また、ジョンの大統領当選に多大な貢献をしたはずのシナトラは、1963年11月にジョンが暗殺された際には「大きなショックを受けた」(娘のナンシー談)が、いずれにしてもロバートが仕切った葬儀には呼ばれなかった。
リプリーズ期ディーン・マーティンとジュディ・ガーランドとともに歌うシナトラ(1962年)チャイニーズ・シアター前に手形を残すシナトラ(1965年)

1960年代に入ってからは、個人レーベルとして「リプリーズ・レコード」を設立、後半は全盛期のキャピトル時代に比してやや水準は劣るものの、良質なアルバムを多数送り出している。また「リプリーズ・レコード」には、サミー・デイヴィスJr.やディーン・マーティン、ビング・クロスビーなどの友人も参加している。

1962年にはワールド・ツアーで初来日し東京でコンサートを行っており、これ以降数度に渡り来日公演を行っている。なお1963年12月には、歌手となった19歳の長男のフランクJr.が誘拐され、240,000ドルを要求されたものの2日後に解放されるという事件が起き、各国のマスコミをにぎわせた[14]

また、この頃全盛期のテレビジョンの音楽ショーへの出演の他に、映画俳優としての活動も活発に行っていたが、かつての人気アイドル的な役回り、評価ではなく、この頃は「演技派俳優」として『影なき狙撃者』などが評価を受けたほか、1965年には初の監督作品として『勇者のみ』の監督および出演を行っている。

1966年7月に、シングル「夜のストレンジャー」を発表。グラミー賞を獲得しシナトラの人気が健在であることを世界中に示した。1967年3月には娘のナンシー・シナトラとデュエットで「恋のひとこと」を発表。ビルボードのHot 100チャートおよび全英シングルチャートで1位を記録した。さらに同年にはブラジルのボサ・ノヴァ歌手のアントニオ・カルロス・ジョビンとのコラボレーションアルバム「フランシス・アルバート・シナトラ&アントニオ・カルロス・ジョビン」を発表するなど精力的に活動した。なお、同アルバムはグラミー賞最優秀アルバム賞にノミネートされた。

1969年にはフランスの歌手クロード・フランソワの楽曲「Comme d' habitude(コム・ダビテュード / いつものように)」にポール・アンカ英語詞を付けたナンバー「マイ・ウェイ」をヒットさせ、124週に渡りシングルチャートに、51週に渡りアルバムチャートにとどまる大ヒットとなった(これは通俗的に流行したことで日本でもよく知られており、シナトラ=「マイ・ウェイ」のイメージが強い)。以降この曲は「ニューヨーク・ニューヨーク」「夜のストレンジャー」に並ぶシナトラの代表曲となった。
副業とチャリティー

またこの頃、リアジェット機などの航空機チャーターやチタンの製造などの事業への投資を開始したほか、イスラエルやイタリア、フランスやブラジルなどの各国の子供向けのチャリティーへの協力を行うなど、自らの資金力と社会的影響力を元に、エンターテインメント以外の分野における活動を活発化させた。

なお全米黒人地位向上協会(NAACP)の活動資金集めのパーティーで、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の前で「オール・マン・リバー」を歌ったときは、牧師を落涙させている。

これをシナトラ本人は「そろそろ(社会に)お返しの時が来た」と発言しているが、実は賭博営業許可証を取得するなどのため、自らの好感度や影響力を上げるためにも大いに事業や寄付を利用した。
ミア・ファローとの2年ミア・ファロー(左はダスティン・ホフマン/1968年)

1965年から、シナトラと19歳の新人女優、かつ映画監督のジョン・ファローと女優のモーリン・オサリヴァンの子として生まれたミア・ファローとの恋愛が話題を呼び、1966年にファローとの結婚を表明した。エヴァ・ガードナーと離婚して以来、独身生活を謳歌していたシナトラに、30歳近く年下の女優との結婚は話題を呼んだ。

結婚当初は、パーム・スプリングスやロンドンへ自家用ジェット機で一緒に行くような仲であるなど上手くいっているように見えたが、「ダイヤモンドのネックレスにジャック・ダニエル」が好みのシナトラに対し、「木彫りの首飾りにマリファナ」と言った流行り(子供向け)のヒッピー風が好み、さらにインドマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーを「尊師」とあがめるファローが長く保つはずがなかった[15]

さらにファローがロマン・ポランスキー監督の「ローズマリーの赤ちゃん」の撮影中に、シナトラとファローと夫婦で出演予定の「刑事」の撮影が迫っているとシナトラが電話したところ、ポランスキーが拒否したことでシナトラは激怒した。さらにファローが、シナトラと今や宿敵となったロバート・ケネディ上院議員たちとディスコで遊んでいたことが暴露されると、シナトラの怒りは頂点に達した。


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