フランク・ザッパ
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しかし結婚生活は破綻して二人は1963年に離婚し、ザッパは家を出てパル・レコーディング・スタジオに寝泊まりするようになった[30]

1967年9月21日、MOI初のヨーロッパ・ツアーに発つ数日前、ザッパはアデレード・ゲイル・スロートマン(Adelaide Gail Sloatman)と再婚した[注釈 68][109]。二人はムーン・ザッパ(英語版)、ドゥイージル・ザッパ(英語版)、アーメット・ザッパ(英語版)、ディーヴァ・シン・マフィン・ピジーン・ザッパ(英語版)の二男二女を儲け、1993年にザッパが病没するまで連れ添った。子供達はいずれもアーティスト・俳優・ミュージシャン・作家など多彩な活動を行っており、ザッパ・バンドとの共演経験もある。長男のドゥイージルは、80年代にロック・ギタリストとして登場し、21世紀には父のレパートリーを再演するプロジェクト「ザッパ・プレイズ・ザッパ」を主宰している。

ザッパの没後、ゲイルはザッパ・ファミリー・トラストを設立して家の地下室に残された膨大な量の未発表音源のマスター・テープを管理し、未発表テイクやライヴ音源を新譜として頻繁に発表してきた。彼女は2015年に70歳で病没したが、子供達が彼女の遺志を引き継いで、彼の逝去後30年近くたった2022年現在も、遺作を次々に発表している。

聖飢魔IIのジェイル大橋こと大橋隆志によると、彼が1987年に結成したキャッツ・イン・ブーツがアメリカでメジャー・デビュー出来たのはドゥイージルとザッパのサポートが大きかった。2人のアメリカ人メンバーがドゥイージルとの繋がりがあった事から、キャッツ・イン・ブーツのデモ音源がザッパの手に渡り、更に彼のビジネスマネージャーで後にバンドのマネージャーになる人物の手に渡って、最終的にEMIと契約に漕ぎ着ける事に成功した[110]
アルバム『レザー』

アルバム『レザー』は、1977年にレコーディングが終了して、同年中に4枚組のアルバムとして発表される予定であった[111]。ところがディスクリート・レコードの作品の配給元であるワーナー・ブラザーズの一方的なクレーム・要求に憤りを感じたザッパが、発表前に収録曲を全てラジオで放送するという強硬策に打って出た。『レザー』収録予定曲を契約上の都合でバラバラのアルバムとして発表した『スタジオ・タン』(1978年)、『スリープ・ダート』(1979年)、『オーケストラル・フェイヴァリッツ』(1979年)や、収録予定曲の含まれた『ザッパ・イン・ニューヨーク』(1978年)、『シーク・ヤブーティ』(1979年)、『ジョーのガレージ』(1979年)などは発売されたものの、『レザー』自体は、ザッパ亡き後、遺族によって1996年にCD化されるまでは長らくお蔵入りとなっていた。

90年代のCD化にあたってインストゥルメンタルにヴォーカルがオーヴァーダブされるなど、当該三作の大胆なアレンジが行われたのは、『レザー』発売のための布石であったと思われる。なお、『レザー』収録曲の中で既発の曲はすべてヴァージョン違いである。
日本公演

1976年2月上旬、ザッパはテリー・ボジオ(ドラムス)、ナポレオン・マーフィー・ブロック[65](テナー・サクソフォーン、ボーカル)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター、ボーカル)、アンドレ・ルイス(英語版)[68][68](キーボード、ボーカル)の4人を率いて、MOI初の、そして唯一の日本公演を行なった[112]

1976年2月1日 東京 浅草国際劇場 (浅草最大のロックショウ)

1976年2月3日 大阪 厚生年金会館

1976年2月4日 京都 京大西部講堂

1976年2月5日 東京 日本青年館

5人編成は1966年以後のMOIとしては最小規模であった[注釈 69]。このMOIは1975年9月から1976年3月まで、時にはゲスト・ミュージシャンを迎えながらコンサート活動を行なった。1976年2月の来日公演は、1976年1月から3月まで行なわれたハワイ、日本、オーストラリア、ニュージーランド、ヨーロッパを巡るワールド・ツアーに組み込まれていた[112]

2月3日の大阪厚生年金会館でのコンサートで録音された'Black Napkins'が『ズート・アリュアーズ』に、'Hands with a Hammer'と’Zoot Allures'がYou Can't Do That On Stage Anymore, Vol.3に収録された[注釈 70]

このワールド・ツアーはMOIの名前が使われた最後のもので[112]、以後のツアーではザッパが率いるバンドの正式名称はZappaになった[113]。ザッパはZappaを連れて二度目の来日を果たすことなく、1993年に病没した。
日本での受け取られ方

著名なファンや研究者としては、大山甲日、ヤギヤスオ(八木康夫)、茂木健、オダギリジョーなどが挙げられる。

アナログ時代には日本での認知度が低かった事もあり、国内盤が発売されなかった作品も多い。名作の誉れ高い『
ホット・ラッツ』もその一つだった。1976年2月に来日公演が行なわれた結果、「ファン同士のネットワークが形成され」、「それまでの奇人変人といった評価から、彼の正統的な音楽性が評価されはじめ」[114]たことで、国内盤の発売が増えたという。アナログ時代の国内レーベル日本グラモフォンビクターワーナー・パイオニアCBSソニー東芝EMI各社である。CD化以降はMSI, ビデオアーツにより国内盤が発売された。

国内盤が発売されると、アルバムや楽曲の多くに原題とは全く無関係な邦題がつけられた。正方形や三角形がジャケットに描かれたアルバム"Ship Arriving Too Late To Save A Drowning Witchには『フランク・ザッパの○△□』、No Not Nowという楽曲には『いまは納豆はいらない』というように、単に原題の語感やジャケットのデザインにこじつけただけのものであった。これらの邦題はCBSソニーのディレクターで当時ザッパを担当していた黒田日出良(渚十吾)が考案したとされる[115]。さらに、これらの日本盤にはヤギヤスオの解説文が寄せられ、『フランク・ザッパの○△□』には「回を重ねるごとにエスカレートする超豪華解説書『マンコ・カパックの友』」が付された[115]

1999年、日本だけの企画として、ザッパのベスト盤シリーズ"Meets Frank Zappa"がライコディスクよりリリースされた。ザッパをリスペクトするPANTA頭脳警察)と山本精一・ATR・HILAH(ボアダムス)、下山淳ルースターズ)、EL-MALO谷中敦東京スカパラダイスオーケストラ)、SUGIZOLUNA SEA)が選曲した。監修は八木康夫。

ディスコグラフィ詳細は「フランク・ザッパの作品」を参照

Freak Out! (フリーク・アウト!1966年)

Absolutely Free (マザーズ・オブ・インヴェンションの自由な世界 / アブソリュートリー・フリー1967年)

We're Only In It For The Money (マザーズ・オブ・インヴェンションのおかしな世界 / ウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニー1968年)

Lumpy Gravy (ランピー・グレイヴィ1968年)

Cruising With Ruben & The Jets (クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ1968年)

Mothermania (マザーマニア/1969年)

Uncle_Meat (アンクル・ミート1969年)

Hot Rats (ホット・ラッツ1969年)


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