フランク・ザッパ
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ザッパは正規の音楽教育を受けたことはなく[24]大学の音楽の講義に潜り込んでいた[注釈 67][98]程度であったので、独学でかなりの研鑽を積んだとみられる。ブーレーズ作「ル・マルトー・サン・メートル」の作曲者自身の指揮によるレコード[99]をスコアを見ながら聴いて演奏の不正確さに気付き、後にそれを本人に指摘した[100]というエピソードから、彼が相当な読譜力を持っていたことが分かる。ただしセリー十二音音楽)やトーン・クラスターといった現代音楽の代表的な手法を使うことは殆んどなく、自らの作曲に関してことさらに理論的な裏付けを示すようなことも行わなかった。現代音楽でもミニマル・ミュージックに対しては明確な嫌悪感を示している。こうした事実も含めて彼の作曲法は多分に手癖なども含めた経験主義的なものであったとみられる、

没後約30年間、現代音楽界においてザッパの音楽が論じられることは殆んどなかったが、彼の作品は?々クラシック音楽の演奏家達に取り上げられてきた。マイケル・キーラン・ハーヴェイ[101]や先述のアンサンブル・モデルン、アンサンブル・アンブロシアス[102]、ハルモニア・アンサンブル[103]、オムニバス・ウィンド・アンサンブル[104]等は彼の作品のみを収録したアルバムを発表し、ノルウェー放送管弦楽団はかつてブーレーズの指揮した"The Perfect Strangers"を演奏した。他にも、メリディアン・アーツ・アンサンブル等のように、彼の作品を演奏する楽団は少なからず存在する。
人物と思想/歌詞

政治批判 :
共和党と、集票基盤であるキリスト教原理主義に強く反対し、作品やライブで選挙人登録を訴えた。特にリチャード・ニクソンロナルド・レーガンらの政治家、モラル・マジョリティー、ジェリー・ファルウェル[105]、パット・ロバートソン、少女買春のスキャンダルが明るみに出たTV宣教師のジミー・スワッガートらの宗教関係者、PMRCによる検閲などを強く批判した[106]

社会風刺 各時代の流行や、若年層のセックスやドラッグ問題、市井の人間の行状などを揶揄した。

現代風俗 実在の地名や人名、国名や人種名などの固有名詞が頻出した。

性風俗 ゲイやSMといった題材をしばしば批判的に取り上げた。


大統領選挙への出馬を真剣に検討したことがある。共和党のロナルド・レーガンに強く反対していたザッパは、1980年代末から1990年代初頭にかけて大統領選挙への出馬を検討し、出馬の会見までおこなったが、ガンのため、実現しなかった。

言葉遊びによる造語や異国語の混入、スラングメタファーの多用された独特の言い回しも多かった。実在のミュージシャンを茶化して言及したり、ツアーによっては時事的な話題を盛り込んで歌詞を改作することもままあった。

政治宗教・社会構成などに対して思想と主義を持っており、それらの事柄に関して独自の意見を述べることでも有名であった。彼は、軽い税金、または所得税廃止といった自由を重視した信条の持ち主であった一方、現存の教育制度と組織化された宗教または宗教団体を痛烈に批判した。共和党のニクソンやレーガンに激しい嫌悪感を示すなど、とことん反権力の人物でもあった。ザッパの政治的な活動で最も知られるのは、言論の自由を守ることの重要さを大々的に訴え、検閲に反対する姿勢を貫いたことであろう。

生前、「宇宙には普遍的なものが2つある。水素と愚かさである」という言葉を残していた[107]

エキセントリックな側面が誇張して語られがちであるが、音楽への取り組みはきわめて真摯であり、古い作品をCD化する際にアナログマスターをそのままデジタル・マスタリングするミュージシャンが大半であった中、彼は過去の作品全てを自らリミックスリマスタリング、時にはオーヴァーダブや編集も施している。さらには亡くなる直前の1993年に一部のアルバムのリマスタリングを行い、暫定的な決定版とした。この1993年盤は本人が数あるマスターから最終的なOKを選んだ「承認マスター」と呼ばれ、1995年以降の再発CDではこのマスターが使用されている



家族

1960年、ザッパは当時通っていたシャフィー・ジュニア・カレッジで、ケイ・シャーマン(Kay Sherman)に出会い、一緒に退学して同棲し始め、やがて結婚した[108]。しかし結婚生活は破綻して二人は1963年に離婚し、ザッパは家を出てパル・レコーディング・スタジオに寝泊まりするようになった[30]

1967年9月21日、MOI初のヨーロッパ・ツアーに発つ数日前、ザッパはアデレード・ゲイル・スロートマン(Adelaide Gail Sloatman)と再婚した[注釈 68][109]。二人はムーン・ザッパ(英語版)、ドゥイージル・ザッパ(英語版)、アーメット・ザッパ(英語版)、ディーヴァ・シン・マフィン・ピジーン・ザッパ(英語版)の二男二女を儲け、1993年にザッパが病没するまで連れ添った。子供達はいずれもアーティスト・俳優・ミュージシャン・作家など多彩な活動を行っており、ザッパ・バンドとの共演経験もある。長男のドゥイージルは、80年代にロック・ギタリストとして登場し、21世紀には父のレパートリーを再演するプロジェクト「ザッパ・プレイズ・ザッパ」を主宰している。

ザッパの没後、ゲイルはザッパ・ファミリー・トラストを設立して家の地下室に残された膨大な量の未発表音源のマスター・テープを管理し、未発表テイクやライヴ音源を新譜として頻繁に発表してきた。彼女は2015年に70歳で病没したが、子供達が彼女の遺志を引き継いで、彼の逝去後30年近くたった2022年現在も、遺作を次々に発表している。

聖飢魔IIのジェイル大橋こと大橋隆志によると、彼が1987年に結成したキャッツ・イン・ブーツがアメリカでメジャー・デビュー出来たのはドゥイージルとザッパのサポートが大きかった。2人のアメリカ人メンバーがドゥイージルとの繋がりがあった事から、キャッツ・イン・ブーツのデモ音源がザッパの手に渡り、更に彼のビジネスマネージャーで後にバンドのマネージャーになる人物の手に渡って、最終的にEMIと契約に漕ぎ着ける事に成功した[110]
アルバム『レザー』

アルバム『レザー』は、1977年にレコーディングが終了して、同年中に4枚組のアルバムとして発表される予定であった[111]。ところがディスクリート・レコードの作品の配給元であるワーナー・ブラザーズの一方的なクレーム・要求に憤りを感じたザッパが、発表前に収録曲を全てラジオで放送するという強硬策に打って出た。『レザー』収録予定曲を契約上の都合でバラバラのアルバムとして発表した『スタジオ・タン』(1978年)、『スリープ・ダート』(1979年)、『オーケストラル・フェイヴァリッツ』(1979年)や、収録予定曲の含まれた『ザッパ・イン・ニューヨーク』(1978年)、『シーク・ヤブーティ』(1979年)、『ジョーのガレージ』(1979年)などは発売されたものの、『レザー』自体は、ザッパ亡き後、遺族によって1996年にCD化されるまでは長らくお蔵入りとなっていた。

90年代のCD化にあたってインストゥルメンタルにヴォーカルがオーヴァーダブされるなど、当該三作の大胆なアレンジが行われたのは、『レザー』発売のための布石であったと思われる。なお、『レザー』収録曲の中で既発の曲はすべてヴァージョン違いである。
日本公演

1976年2月上旬、ザッパはテリー・ボジオ(ドラムス)、ナポレオン・マーフィー・ブロック[65](テナー・サクソフォーン、ボーカル)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター、ボーカル)、アンドレ・ルイス(英語版)[68][68](キーボード、ボーカル)の4人を率いて、MOI初の、そして唯一の日本公演を行なった[112]

1976年2月1日 東京 浅草国際劇場 (浅草最大のロックショウ)

1976年2月3日 大阪 厚生年金会館

1976年2月4日 京都 京大西部講堂

1976年2月5日 東京 日本青年館

5人編成は1966年以後のMOIとしては最小規模であった[注釈 69]。このMOIは1975年9月から1976年3月まで、時にはゲスト・ミュージシャンを迎えながらコンサート活動を行なった。1976年2月の来日公演は、1976年1月から3月まで行なわれたハワイ、日本、オーストラリア、ニュージーランド、ヨーロッパを巡るワールド・ツアーに組み込まれていた[112]

2月3日の大阪厚生年金会館でのコンサートで録音された'Black Napkins'が『ズート・アリュアーズ』に、'Hands with a Hammer'と’Zoot Allures'がYou Can't Do That On Stage Anymore, Vol.3に収録された[注釈 70]


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