1956年、フランシスはモハーヴェ砂漠の西端に位置するアンテロープ・バレーのエドワーズ空軍基地の近くにある連邦政府化学戦研究施設に勤務することになり[17]、一家はサンディエゴからランカスターに転居し、ザッパはアンテロープ・バレー・ハイ・スクールに転入した。フランシスは1956年から1959年まで最高機密情報を取り扱う適格性を問われるセキュリティ・クリアランスを受けた[18]。一家はこの空軍基地の近くに暮らしたため、事故に備えて家庭には防毒マスクが常備されていた。
ザッパは12歳でドラムスを始め[19]、17歳でギターに転向した。彼はドゥーワップの熱心なファンで、15歳から17歳まではR&Bばかり演奏しており[19]、本人曰く「クラレンス・"ゲイトマウス"・ブラウンやジョニー・"ギター"・ワトソン[注釈 9]、ギター・スリムなどに影響を受けた[20]」。バンド活動を始めたのも高校生の時で、サンディエゴのミッション・ベイ・ハイ・スクールに通っていた時にザ・ランブラーズ(The Ramblers)というR&Bバンドに加入してドラムスを担当し[19]、ランカスターのアンテロープ・バレー・ハイ・スクールではR&Bバンドのザ・ブラック‐アウツ(The Black-Outs[注釈 10])を結成してドラムスを担当した[注釈 11][21]。またアンテロープ・バレー・ハイ・スクールでは、同級生のドン・グレン・ヴリート[注釈 12]とザ・スパニエルズやジ・オーチッズなどのドゥーワップ・グループやR&Bミュージシャンのレコード鑑賞を通じて親交を深め、ザッパがギター、ヴリートがボーカルを担当してレコーディングをするようになった。
一方、彼は14歳の頃にエドガー・ヴァレーズの作品集[22]を購入して[注釈 13]夢中になり[23][注釈 14]、続いてイゴール・ストラヴィンスキーやアントン・ウェーベルンの作品も熱心に聴くようになった[24]。アンテロープ・バレー・ハイ・スクールの最上級学年の時には、許可を受けてアンテロープ・バレー・ジュニア・カレッジで和声の講義を聴いた[25]。 1958年6月にアンテロープ・バレー・ハイ・スクールを卒業したザッパは、アンテロープ・ジュニア・カレッジ
初期の活動
1961年にレコーディング・エンジニアのポール・バフ[注釈 18]に出会い、バフがカリフォルニア州クカモンガ〈現ランチョクカモンガ)に設立したパル・レコーディング・スタジオ(以下、パル・スタジオと呼称する)でレコーディングの基本を学んだ。1962年にポモナで出会ったボーカリストのレイ・コリンズをパル・スタジオに誘って共同でレコーディングを行ない、1963年にNed and Nelda[31]の名義でシングル'Hey Nelda'[32]、Baby Ray and The Ferns[33]の名義でシングル'How's Your Bird?'[34]を発表した。また彼等は'Memories of El Monte'という楽曲を共作。ザッパはこの曲を当時西海岸で人気があったディスク・ジョッキーのアート・ラボーに聴かせると、ラボーはこの曲を気に入って、ドゥーワップ・グループのザ・ペンギンズが録音することを提案した。ザ・ペンギンズはザッパをプロデューサーに迎えて、パル・スタジオでこの曲を録音して、1963年にラボーのレコード会社であるオリジナル・サウンド(Original Sound)からシングルとして発表した[35][36]。また彼等の別の共作である'Everytime I See You'はドゥーワップ・デュオのザ・ハートブレイカーズ[37]のシングルとして1963年4月に発表された[注釈 19][38][39]。