静養期間中に、ザッパはビッグ・バンド・スタイルによるジャズ・ロックのスタジオ録音に没頭する。その成果は、1972年に立て続けに発表されたビッグ・バンド形式のソロ・アルバム『ワカ/ジャワカ』(同年2月)とMOI名義のアルバム『グランド・ワズー』(同年11月)として結実した。
同年9月、彼はアンダーウッド、当時アンダーウッドの夫人だったルース・アンダーウッド
(英語版)[56](パーカッション)、ブルース・ファウラー(英語版)[57](トロンボーン)、元デレク・アンド・ザ・ドミノスのジム・ゴードン[注釈 42](ドラムス)、『ワカ/ジャワカ』の制作に参加したミュージシャン、新たなセッション・ミュージシャンなどからなる総勢20名のザ・グランド・ワズー・オーケストラを編成してライブ活動を再開し、アメリカとヨーロッパで7回のコンサートを開いた。さらに彼は、ザ・グランド・ワズー・オーケストラからゴードンを含む9名を選び出して総勢10名のザ・プチ・ワズーを編成して、10月から12月にかけてアメリカとカナダでコンサートを開いた[注釈 43][58]。ザッパは暴行事件による骨折で高音域の発声が圧迫され、特徴的なロー・トーン・ヴォイスになってしまった[59][60]。静養期間を経て、彼は本人が「(引用者註・自分のヴォーカリスト・演奏者としての力量をさして)この程度のスペックでは自分のオーディションにさえ合格できない」[59]と述べた程の厳格なオーディションを行って非常に高い演奏技術を持ったミュージシャンを集めるようになり、期せずして「ザッパ・スクール」が形成されることとなった。総じて、この事件はまさに「怪我の功名」とも言うべき結果を導いた。 1973年2月、ザッパはアンダーウッド夫妻、デューク、ジャン=リュック・ポンティ[注釈 44][61](ヴァイオリン)、ラルフ・ハンフリー[注釈 45][62][63](ドラムス)、ファウラーと彼の弟のトム・ファウラー
1973年から1976年まで
1975年4月と5月、MOIはトンプソンに代わってテリー・ボジオ[注釈 48][67]を迎え、キャプテン・ビーフハートと共同名義の国内ツアーを行なった[注釈 49]。同年10月に発表されたザッパ/ビーフハート/マザーズ名義のライブ・アルバム『ボンゴ・フューリー』[注釈 50]を最後に、ザッパは新作アルバムの名義にMOIの名前を使わなくなり[注釈 51]、全てをフランク・ザッパ名義にした。
1975年9月、ザッパはボジオ、エストラーダ、ブロック、アンドレ・ルイス(英語版)[68][68](キーボード、ボーカル)と5人編成のMOIを結成。彼等は時にはゲスト・ミュージシャンを迎えながら、1976年3月までコンサート活動を行なった。この5人の活動を最後に、彼はライブ活動でもMOIの名前を使わなくなり、コンサートも全てフランク・ザッパ名義にした。 1976年10月、ザッパはボジオとの共同作業を軸にブロック、エストラーダを含む多数のメンバーを断片的に関与させて制作した『ズート・アリュアーズ』をフランク・ザッパ名義で発表した。同月、彼は正式名称をザッパ(以下、Zappa[注釈 52])とするバンド[69][注釈 53]を編成して、初のフランク・ザッパ名義のツアーを開始した。メンバーはボジオ(ドラムス、ボーカル)、元ロキシー・ミュージックのエディ・ジョブソン(ヴァイオリン、キーボード)、パトリック・オハーン
ソロ
1977年半ばに、自身のレーベル「ザッパ・レコード」を設立。ボジオ、オハーン、エイドリアン・ブリュー[73](ギター、ボーカル)、トミー・マーズ(英語版)[74](キーボード、ボーカル)、ピーター・ウルフ(英語版)[注釈 59][75](キーボード)、エド・マン[76](パーカッション)と、9月から11月まで国内ツアー、ロサンゼルスでの大晦日のコンサート、翌1978年1月から2月までヨーロッパ・ツアーを行なった。