1971年12月4日、モントルーのカジノ「モントルー・カジノ」での公演中に、観客の一人が会場の天井に向けてフレア・ガンを発射したので火災が起こり、MOIはその機材すべてを失った。ショーが始まって1時間過ぎた頃に、「フレア・ガンを持ったいかれた野郎」[注釈 40]が天井に向かって銃を発射したので発火。天井は竹で出来ていたので火はあっという間に広がり、十数時間以上燃え続けて、カジノは全焼した[54]。モントルー・ジャズ・フェスティバルの創設者であるクロード・ノブスが観客を必死に誘導したので幸い負傷者は出なかった[注釈 41]。翌週の12月10日、ロンドンでの次の公演中に聴衆の一人がザッパをステージから突き落とすという事件が起こった。彼はコンクリートのオーケストラ・ピットに転落して全身に複雑骨折を負い、一時は生命すら危ぶまれた[55]。一命はとりとめたものの、翌1972年の9月までツアーに出ることもままならない静養生活を送らざるを得なかった。このためザッパは当然MOIを維持することが出来なくなり、MOIは解散の憂き目に会う。 静養期間中に、ザッパはビッグ・バンド・スタイルによるジャズ・ロックのスタジオ録音に没頭する。その成果は、1972年に立て続けに発表されたビッグ・バンド形式のソロ・アルバム『ワカ/ジャワカ』(同年2月)とMOI名義のアルバム『グランド・ワズー』(同年11月)として結実した。 同年9月、彼はアンダーウッド、当時アンダーウッドの夫人だったルース・アンダーウッド
負傷静養期間
ザッパは暴行事件による骨折で高音域の発声が圧迫され、特徴的なロー・トーン・ヴォイスになってしまった[59][60]。静養期間を経て、彼は本人が「(引用者註・自分のヴォーカリスト・演奏者としての力量をさして)この程度のスペックでは自分のオーディションにさえ合格できない」[59]と述べた程の厳格なオーディションを行って非常に高い演奏技術を持ったミュージシャンを集めるようになり、期せずして「ザッパ・スクール」が形成されることとなった。総じて、この事件はまさに「怪我の功名」とも言うべき結果を導いた。 1973年2月、ザッパはアンダーウッド夫妻、デューク、ジャン=リュック・ポンティ[注釈 44][61](ヴァイオリン)、ラルフ・ハンフリー[注釈 45][62][63](ドラムス)、ファウラーと彼の弟のトム・ファウラー
1973年から1976年まで
1975年4月と5月、MOIはトンプソンに代わってテリー・ボジオ[注釈 48][67]を迎え、キャプテン・ビーフハートと共同名義の国内ツアーを行なった[注釈 49]。同年10月に発表されたザッパ/ビーフハート/マザーズ名義のライブ・アルバム『ボンゴ・フューリー』[注釈 50]を最後に、ザッパは新作アルバムの名義にMOIの名前を使わなくなり[注釈 51]、全てをフランク・ザッパ名義にした。
1975年9月、ザッパはボジオ、エストラーダ、ブロック、アンドレ・ルイス(英語版)[68][68](キーボード、ボーカル)と5人編成のMOIを結成。彼等は時にはゲスト・ミュージシャンを迎えながら、1976年3月までコンサート活動を行なった。この5人の活動を最後に、彼はライブ活動でもMOIの名前を使わなくなり、コンサートも全てフランク・ザッパ名義にした。 1976年10月、ザッパはボジオとの共同作業を軸にブロック、エストラーダを含む多数のメンバーを断片的に関与させて制作した『ズート・アリュアーズ』をフランク・ザッパ名義で発表した。同月、彼は正式名称をザッパ(以下、Zappa[注釈 52])とするバンド[69][注釈 53]を編成して、初のフランク・ザッパ名義のツアーを開始した。メンバーはボジオ(ドラムス、ボーカル)、元ロキシー・ミュージックのエディ・ジョブソン(ヴァイオリン、キーボード)、パトリック・オハーン
ソロ