1969年8月18日にモントリオールでMOIのコンサートを行なった後、同年10月にザッパはMOIの解散を発表した。翌1970年に、MOIの未発表の音源を編集した『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』と『いたち野郎』が発表された。『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』には、シュガーケイン・ハリス(英語版)(バイオリン)が参加している[45]。 ザッパはMOIの解散を発表した10月、ベルギーで24日から28日まで開かれたアムージ―音楽祭(Festival d'Amougies)の進行役を務めた[注釈 30][46]。そして11月から1970年4月まで、元MOIのトリップとアンダーウッド、ハリス、イギリス人のエインズレー・ダンバー[注釈 31][47](ドラムス)など4人ないし5人のミュージシャンを様々に組み合わせて、フランク・ザッパ・アンド・フレンズ、フランク・ザッパ・アンド・ホット・ラッツ、チュンガ[注釈 32]などのバンド名で、カリフォルニア州で数回ライブ活動を行なった[48][49]。 1970年5月には、コリンズ、アンダーウッド、モーターヘッド・シャーウッド ソロ・アルバム『チャンガの復讐』で幕を開けた70年代のザッパの音楽は、ロック、ジャズ・ロック、ブラック・ミュージック、ジャズ・フュージョン、パンク/ニュー・ウェイヴ、ファンク、レゲエと、幾度も変遷を繰り返した。1970年6月、彼はアンダーウッド、ダンバー[注釈 35][51]、シモンズ、タートルズのヴォーカリストであったハワード・カイランとマーク・ボルマンのデュオ[注釈 36][52]、ジョージ・デューク[注釈 37][53](キーボード)らと新しいMOIを結成して、60年代に比べると、ややポップな歌ものに傾斜したアプローチを見せた。20分を超える大曲「ビリー・ザ・マウンテン」を収録した『ジャスト・アナザー・バンド・フロム L.A.』[注釈 38](1972年)は、ミュージカル的な掛け合いをサウンドの一部として聴かせており、当時の布陣による一つの音楽的成果と言える。1971年には映画『200モーテルズ
再結成までの移行期
1970年から1971年まで
1971年12月4日、モントルーのカジノ「モントルー・カジノ」での公演中に、観客の一人が会場の天井に向けてフレア・ガンを発射したので火災が起こり、MOIはその機材すべてを失った。ショーが始まって1時間過ぎた頃に、「フレア・ガンを持ったいかれた野郎」[注釈 40]が天井に向かって銃を発射したので発火。天井は竹で出来ていたので火はあっという間に広がり、十数時間以上燃え続けて、カジノは全焼した[54]。モントルー・ジャズ・フェスティバルの創設者であるクロード・ノブスが観客を必死に誘導したので幸い負傷者は出なかった[注釈 41]。翌週の12月10日、ロンドンでの次の公演中に聴衆の一人がザッパをステージから突き落とすという事件が起こった。彼はコンクリートのオーケストラ・ピットに転落して全身に複雑骨折を負い、一時は生命すら危ぶまれた[55]。一命はとりとめたものの、翌1972年の9月までツアーに出ることもままならない静養生活を送らざるを得なかった。このためザッパは当然MOIを維持することが出来なくなり、MOIは解散の憂き目に会う。 静養期間中に、ザッパはビッグ・バンド・スタイルによるジャズ・ロックのスタジオ録音に没頭する。その成果は、1972年に立て続けに発表されたビッグ・バンド形式のソロ・アルバム『ワカ/ジャワカ』(同年2月)とMOI名義のアルバム『グランド・ワズー』(同年11月)として結実した。 同年9月、彼はアンダーウッド、当時アンダーウッドの夫人だったルース・アンダーウッド
負傷静養期間
ザッパは暴行事件による骨折で高音域の発声が圧迫され、特徴的なロー・トーン・ヴォイスになってしまった[59][60]。