フランク・ザッパ
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ザッパの音楽は、ブルースやR&B、ジャズドゥー・ワップ[注釈 24]などの所謂ルーツ・ミュージックに現代音楽の要素を加えた、今日で言うミクスチャー・ミュージックの先駆的なものであった。また、『フリーク・アウト』、『ランピー・グレイヴィ』でのオーケストラと共演、『アンクル・ミート』(1969年)での室内楽的なアプローチやテープ編集によるスタジオ音源とライヴ音源とのミックスなど、技法の斬新さも特筆すべきものがあった。一方、『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』(1968年)では自身の音楽のもう一つのルーツであるドゥー・ワップに斬新なコード進行とアレンジを施したルーツ・ミュージックを披露し、MOIのコンサートでは'Louie Louie'[注釈 25]などのトラディショナルなナンバーも演奏するなど、音楽性の二本槍をきっちりと守った。ソロ・アルバムではMOIのアルバムとは別種の方向性を打ち出し、具体音楽とジャズ・ロックにポピュラー音楽的解釈をいち早く導入した。

当初MOIはMGMレコードの子会社のヴァーヴ・レコードに所属していたが、充分なプロモーションを受けられず不遇だった[注釈 26]。そこでザッパは1968年に「ビザール・レコード(英語版)」と「ストレイト・レコード」という二つのインディーズ・レーベルを設立して[注釈 27]、前者からはMOIや自分の作品、後者からはキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドアリス・クーパー[注釈 28]ティム・バックリィ、The GTOs(英語版)らの作品を発表した。キャプテン・ビーフハートこと旧友ドン・ヴァン・ヴリート[注釈 29]が率いるキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドのアルバム『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)は、ザッパのプロデュース作品の代表の一つに挙げられてきた。

1969年8月18日にモントリオールでMOIのコンサートを行なった後、同年10月にザッパはMOIの解散を発表した。翌1970年に、MOIの未発表の音源を編集した『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』と『いたち野郎』が発表された。『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』には、シュガーケイン・ハリス(英語版)(バイオリン)が参加している[45]
再結成までの移行期

ザッパはMOIの解散を発表した10月、ベルギーで24日から28日まで開かれたアムージ―音楽祭(Festival d'Amougies)の進行役を務めた[注釈 30][46]。そして11月から1970年4月まで、元MOIのトリップとアンダーウッド、ハリス、イギリス人のエインズレー・ダンバー[注釈 31][47](ドラムス)など4人ないし5人のミュージシャンを様々に組み合わせて、フランク・ザッパ・アンド・フレンズ、フランク・ザッパ・アンド・ホット・ラッツ、チュンガ[注釈 32]などのバンド名で、カリフォルニア州で数回ライブ活動を行なった[48][49]

1970年5月には、コリンズ、アンダーウッド、モーターヘッド・シャーウッド(バリトン・サクソフォーン)、ビリー・ムンディ(ドラムス)らMOIの元メンバー、ダンバー、ジェフ・シモンズ[注釈 33](ベース・ギター、ボーカル)を集めてMOIを一時的に再結成した[注釈 34]。彼等は5月15日にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のポーリー・パビリオンズービン・メータが指揮するロサンゼルス・フィルハーモニックと共演した[48]ほか、ニューヨークのフィルモア・イーストやシカゴで数回コンサート活動を行なった[49][50]
1970年から1971年まで

ソロ・アルバム『チャンガの復讐』で幕を開けた70年代のザッパの音楽は、ロック、ジャズ・ロック、ブラック・ミュージック、ジャズ・フュージョン、パンク/ニュー・ウェイヴ、ファンク、レゲエと、幾度も変遷を繰り返した。1970年6月、彼はアンダーウッド、ダンバー[注釈 35][51]、シモンズ、タートルズのヴォーカリストであったハワード・カイランとマーク・ボルマンのデュオ[注釈 36][52]ジョージ・デューク[注釈 37][53]キーボード)らと新しいMOIを結成して、60年代に比べると、ややポップな歌ものに傾斜したアプローチを見せた。20分を超える大曲「ビリー・ザ・マウンテン」を収録した『ジャスト・アナザー・バンド・フロム L.A.[注釈 38](1972年)は、ミュージカル的な掛け合いをサウンドの一部として聴かせており、当時の布陣による一つの音楽的成果と言える。1971年には映画『200モーテルズ(英語版)』[注釈 39]とアルバム『200モーテルズ(サウンドトラック)(英語版)』を発表した。

1971年12月4日、モントルーカジノモントルー・カジノ」での公演中に、観客の一人が会場の天井に向けてフレア・ガンを発射したので火災が起こり、MOIはその機材すべてを失った。ショーが始まって1時間過ぎた頃に、「フレア・ガンを持ったいかれた野郎」[注釈 40]が天井に向かって銃を発射したので発火。天井は竹で出来ていたので火はあっという間に広がり、十数時間以上燃え続けて、カジノは全焼した[54]モントルー・ジャズ・フェスティバルの創設者であるクロード・ノブスが観客を必死に誘導したので幸い負傷者は出なかった[注釈 41]。翌週の12月10日、ロンドンでの次の公演中に聴衆の一人がザッパをステージから突き落とすという事件が起こった。彼はコンクリートのオーケストラ・ピットに転落して全身に複雑骨折を負い、一時は生命すら危ぶまれた[55]。一命はとりとめたものの、翌1972年の9月までツアーに出ることもままならない静養生活を送らざるを得なかった。このためザッパは当然MOIを維持することが出来なくなり、MOIは解散の憂き目に会う。
負傷静養期間

静養期間中に、ザッパはビッグ・バンド・スタイルによるジャズ・ロックのスタジオ録音に没頭する。その成果は、1972年に立て続けに発表されたビッグ・バンド形式のソロ・アルバム『ワカ/ジャワカ』(同年2月)とMOI名義のアルバム『グランド・ワズー』(同年11月)として結実した。


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