フランク・ザッパ
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1965年、彼等はMGMレコードの子会社であるヴァーヴ・レコードと契約を結び、名前をザ・マザーズ・オブ・インヴェンション[注釈 22](本稿ではMOI[注釈 23]と略称する)に変えて、翌1966年にデビュー・アルバム『フリーク・アウト!』をリリースした。ザッパ作の全14曲から構成された本作は、当時としては異例の2枚組であり、ロック史上初のコンセプト・アルバムの一つであった。

MOIは新しいメンバーを加えて1969年まで活動を継続し、アルバムを7作発表した。MOIの作品のほぼ全てはザッパの単独名義であったが、ザ・ソウル・ジャイアンツ時代からのトラディショナルな素地を持ったコリンズ、ブラック、エストラーダに、バンク・ガードナー(英語版)(木管楽器)やアート・トリップ(パーカッション)のようなオーケストラ出身者、ドン・プレストン(英語版)(キーボード)のようなセッションマン、イアン・アンダーウッド(キーボード、サクソフォーン)のようなジャズやクラシックの素養豊かなインテリ、と様々なバック・グラウンドを持った新メンバーを迎えたMOIは、各メンバーの個性と才能が存分に発揮された多彩な音楽性を呈していた。一方で、ザッパは『ランピー・グレイヴィ』(1968年)と『ホット・ラッツ』(1969年)の2作のソロ・アルバムを発表し、既に群を抜いた多作振りを示していた。アメリカではヒット・アルバムが出なかったが、イギリスでは『ホット・ラッツ』がヒットチャートで上位を占め、メロディー・メーカー(英語版)誌の1969年度の「Album Of The Year」に輝いた。

ザッパの音楽は、ブルースやR&B、ジャズドゥー・ワップ[注釈 24]などの所謂ルーツ・ミュージックに現代音楽の要素を加えた、今日で言うミクスチャー・ミュージックの先駆的なものであった。また、『フリーク・アウト』、『ランピー・グレイヴィ』でのオーケストラと共演、『アンクル・ミート』(1969年)での室内楽的なアプローチやテープ編集によるスタジオ音源とライヴ音源とのミックスなど、技法の斬新さも特筆すべきものがあった。一方、『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』(1968年)では自身の音楽のもう一つのルーツであるドゥー・ワップに斬新なコード進行とアレンジを施したルーツ・ミュージックを披露し、MOIのコンサートでは'Louie Louie'[注釈 25]などのトラディショナルなナンバーも演奏するなど、音楽性の二本槍をきっちりと守った。ソロ・アルバムではMOIのアルバムとは別種の方向性を打ち出し、具体音楽とジャズ・ロックにポピュラー音楽的解釈をいち早く導入した。

当初MOIはMGMレコードの子会社のヴァーヴ・レコードに所属していたが、充分なプロモーションを受けられず不遇だった[注釈 26]。そこでザッパは1968年に「ビザール・レコード(英語版)」と「ストレイト・レコード」という二つのインディーズ・レーベルを設立して[注釈 27]、前者からはMOIや自分の作品、後者からはキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドアリス・クーパー[注釈 28]ティム・バックリィ、The GTOs(英語版)らの作品を発表した。キャプテン・ビーフハートこと旧友ドン・ヴァン・ヴリート[注釈 29]が率いるキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドのアルバム『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)は、ザッパのプロデュース作品の代表の一つに挙げられてきた。

1969年8月18日にモントリオールでMOIのコンサートを行なった後、同年10月にザッパはMOIの解散を発表した。翌1970年に、MOIの未発表の音源を編集した『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』と『いたち野郎』が発表された。『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』には、シュガーケイン・ハリス(英語版)(バイオリン)が参加している[45]
再結成までの移行期

ザッパはMOIの解散を発表した10月、ベルギーで24日から28日まで開かれたアムージ―音楽祭(Festival d'Amougies)の進行役を務めた[注釈 30][46]。そして11月から1970年4月まで、元MOIのトリップとアンダーウッド、ハリス、イギリス人のエインズレー・ダンバー[注釈 31][47](ドラムス)など4人ないし5人のミュージシャンを様々に組み合わせて、フランク・ザッパ・アンド・フレンズ、フランク・ザッパ・アンド・ホット・ラッツ、チュンガ[注釈 32]などのバンド名で、カリフォルニア州で数回ライブ活動を行なった[48][49]

1970年5月には、コリンズ、アンダーウッド、モーターヘッド・シャーウッド(バリトン・サクソフォーン)、ビリー・ムンディ(ドラムス)らMOIの元メンバー、ダンバー、ジェフ・シモンズ[注釈 33](ベース・ギター、ボーカル)を集めてMOIを一時的に再結成した[注釈 34]。彼等は5月15日にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のポーリー・パビリオンズービン・メータが指揮するロサンゼルス・フィルハーモニックと共演した[48]ほか、ニューヨークのフィルモア・イーストやシカゴで数回コンサート活動を行なった[49][50]
1970年から1971年まで

ソロ・アルバム『チャンガの復讐』で幕を開けた70年代のザッパの音楽は、ロック、ジャズ・ロック、ブラック・ミュージック、ジャズ・フュージョン、パンク/ニュー・ウェイヴ、ファンク、レゲエと、幾度も変遷を繰り返した。1970年6月、彼はアンダーウッド、ダンバー[注釈 35][51]、シモンズ、タートルズのヴォーカリストであったハワード・カイランとマーク・ボルマンのデュオ[注釈 36][52]ジョージ・デューク[注釈 37][53]キーボード)らと新しいMOIを結成して、60年代に比べると、ややポップな歌ものに傾斜したアプローチを見せた。20分を超える大曲「ビリー・ザ・マウンテン」を収録した『ジャスト・アナザー・バンド・フロム L.A.[注釈 38](1972年)は、ミュージカル的な掛け合いをサウンドの一部として聴かせており、当時の布陣による一つの音楽的成果と言える。1971年には映画『200モーテルズ(英語版)』[注釈 39]とアルバム『200モーテルズ(サウンドトラック)(英語版)』を発表した。

1971年12月4日、モントルーカジノモントルー・カジノ」での公演中に、観客の一人が会場の天井に向けてフレア・ガンを発射したので火災が起こり、MOIはその機材すべてを失った。


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