フランク・ザッパ
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1961年にレコーディング・エンジニアのポール・バフ[注釈 18]に出会い、バフがカリフォルニア州クカモンガ〈現ランチョクカモンガ)に設立したパル・レコーディング・スタジオ(以下、パル・スタジオと呼称する)でレコーディングの基本を学んだ。1962年にポモナで出会ったボーカリストのレイ・コリンズをパル・スタジオに誘って共同でレコーディングを行ない、1963年にNed and Nelda[31]の名義でシングル'Hey Nelda'[32]、Baby Ray and The Ferns[33]の名義でシングル'How's Your Bird?'[34]を発表した。また彼等は'Memories of El Monte'という楽曲を共作。ザッパはこの曲を当時西海岸で人気があったディスク・ジョッキーのアート・ラボーに聴かせると、ラボーはこの曲を気に入って、ドゥーワップ・グループのザ・ペンギンズが録音することを提案した。ザ・ペンギンズはザッパをプロデューサーに迎えて、パル・スタジオでこの曲を録音して、1963年にラボーのレコード会社であるオリジナル・サウンド(Original Sound)からシングルとして発表した[35][36]。また彼等の別の共作である'Everytime I See You'はドゥーワップ・デュオのザ・ハートブレイカーズ[37]のシングルとして1963年4月に発表された[注釈 19][38][39]

バフはオリジナル・サウンドと契約を結んだのでハリウッドのスタジオで作業する時間が増え、パル・スタジオはザッパが引き継いだ形になっていった。彼は最初の結婚生活が破綻した後にはスタジオに引っ越して、そこで生活しながらレコーディング作業に没頭した。そして1964年7月にRun Home Slowの音楽担当の報酬を受け取ったので、その大半を資金源にしてバフからパル・スタジオを買い取って、8月1日にスタジオZとして再出発させ[40][注釈 20]、引き続いて様々なレコーディング活動を行なった[41][42]。その一つである"I Was a Teen-age Malt Shop"は1962年にコリンズと発表したシングル'Hey Nelda'の名義に因んだNedとNeldaという父娘を題材にしたロックン・ロールのオペラだった。彼は同年12月に、この作品をCBSの番組プロデューサー[注釈 21]に聴かせて番組で取り上げてもらおうとしたが、彼の企ては失敗して作品はお蔵入りになった[43]。高校の同級生のヴリートらとスタジオZで録音した主題歌は、ザッパの『ミステリー・ディスク』(1998年)に収録されている。
ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション
1964年から1969年まで

1964年、ザッパは、レイ・コリンズ(ボーカル)がリーダーを務めジミー・カール・ブラック(英語版)(ドラムス)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター)が在籍していたザ・ソウル・ジャイアンツというバンドに、ギタリストとして加入した[44]。ザ・ソウル・ジャイアンツはソウル・ミュージックのカヴァー・バンドであったが、ザッパの提案によってオリジナル曲を演奏し始めた[44]1965年、彼等はMGMレコードの子会社であるヴァーヴ・レコードと契約を結び、名前をザ・マザーズ・オブ・インヴェンション[注釈 22](本稿ではMOI[注釈 23]と略称する)に変えて、翌1966年にデビュー・アルバム『フリーク・アウト!』をリリースした。ザッパ作の全14曲から構成された本作は、当時としては異例の2枚組であり、ロック史上初のコンセプト・アルバムの一つであった。

MOIは新しいメンバーを加えて1969年まで活動を継続し、アルバムを7作発表した。MOIの作品のほぼ全てはザッパの単独名義であったが、ザ・ソウル・ジャイアンツ時代からのトラディショナルな素地を持ったコリンズ、ブラック、エストラーダに、バンク・ガードナー(英語版)(木管楽器)やアート・トリップ(パーカッション)のようなオーケストラ出身者、ドン・プレストン(英語版)(キーボード)のようなセッションマン、イアン・アンダーウッド(キーボード、サクソフォーン)のようなジャズやクラシックの素養豊かなインテリ、と様々なバック・グラウンドを持った新メンバーを迎えたMOIは、各メンバーの個性と才能が存分に発揮された多彩な音楽性を呈していた。一方で、ザッパは『ランピー・グレイヴィ』(1968年)と『ホット・ラッツ』(1969年)の2作のソロ・アルバムを発表し、既に群を抜いた多作振りを示していた。アメリカではヒット・アルバムが出なかったが、イギリスでは『ホット・ラッツ』がヒットチャートで上位を占め、メロディー・メーカー(英語版)誌の1969年度の「Album Of The Year」に輝いた。

ザッパの音楽は、ブルースやR&B、ジャズドゥー・ワップ[注釈 24]などの所謂ルーツ・ミュージックに現代音楽の要素を加えた、今日で言うミクスチャー・ミュージックの先駆的なものであった。また、『フリーク・アウト』、『ランピー・グレイヴィ』でのオーケストラと共演、『アンクル・ミート』(1969年)での室内楽的なアプローチやテープ編集によるスタジオ音源とライヴ音源とのミックスなど、技法の斬新さも特筆すべきものがあった。一方、『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』(1968年)では自身の音楽のもう一つのルーツであるドゥー・ワップに斬新なコード進行とアレンジを施したルーツ・ミュージックを披露し、MOIのコンサートでは'Louie Louie'[注釈 25]などのトラディショナルなナンバーも演奏するなど、音楽性の二本槍をきっちりと守った。ソロ・アルバムではMOIのアルバムとは別種の方向性を打ち出し、具体音楽とジャズ・ロックにポピュラー音楽的解釈をいち早く導入した。

当初MOIはMGMレコードの子会社のヴァーヴ・レコードに所属していたが、充分なプロモーションを受けられず不遇だった[注釈 26]。そこでザッパは1968年に「ビザール・レコード(英語版)」と「ストレイト・レコード」という二つのインディーズ・レーベルを設立して[注釈 27]、前者からはMOIや自分の作品、後者からはキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドアリス・クーパー[注釈 28]ティム・バックリィ、The GTOs(英語版)らの作品を発表した。キャプテン・ビーフハートこと旧友ドン・ヴァン・ヴリート[注釈 29]が率いるキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドのアルバム『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)は、ザッパのプロデュース作品の代表の一つに挙げられてきた。

1969年8月18日にモントリオールでMOIのコンサートを行なった後、同年10月にザッパはMOIの解散を発表した。翌1970年に、MOIの未発表の音源を編集した『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』と『いたち野郎』が発表された。『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』には、シュガーケイン・ハリス(英語版)(バイオリン)が参加している[45]


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