フランク・ザッパ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

メンバーはボジオ(ドラムス、ボーカル)、元ロキシー・ミュージックエディ・ジョブソン(ヴァイオリン、キーボード)、パトリック・オハーン(英語版)[70](ベース・ギター)、レイ・ホワイト(英語版)[71](ボーカル、ギター)、ビアンカ・ソーントン(英語版)[72](キーボード、ボーカル)で、MOI最後のツアーに引き続いて参加したボジオ以外は新顔であった[注釈 54][注釈 55]。彼等は10月と11月に国内ツアー[注釈 56]、翌1977年1月と2月にはヨーロッパ・ツアーを行なった。また1976年12月にはブレッカー・ブラザーズ[注釈 57]をはじめとするホーン・プレイヤーと元MOIのルース・アンダーウッド(パーカッション)らを迎えて、26日から29日までニューヨークのパラディアム・シアターでコンサートを開いた。その音源は1978年に『ザッパ・イン・ニューヨーク』として発表された[注釈 58]

1977年半ばに、自身のレーベル「ザッパ・レコード」を設立。ボジオ、オハーン、エイドリアン・ブリュー[73](ギター、ボーカル)、トミー・マーズ(英語版)[74](キーボード、ボーカル)、ピーター・ウルフ(英語版)[注釈 59][75](キーボード)、エド・マン[76](パーカッション)と、9月から11月まで国内ツアー、ロサンゼルスでの大晦日のコンサート、翌1978年1月から2月までヨーロッパ・ツアーを行なった。そして3月にザッパ・レコードの第1弾アルバムとして、主にヨーロッパ・ツアーで録音された音源にスタジオでオーバー・ダビングを施したものを中心に収録した『シーク・ヤブーティ[注釈 60]を発表した。続いて8月下旬から10月まで、マーズ、ウルフ、マン、アイク・ウィルス(英語版)[77](ギター、ボーカル)、アーサー・バロウ(英語版)[78](ベース・ギター)、ヴィニー・カリウタ[79](ドラムス)、元MOIのデニー・ウォーリー(ギター)らの新編成で国内とヨーロッパをツアー。翌1979年にはさらにウォーレン・ククルロ(英語版)[80](ギター)を迎えて2月から4月までヨーロッパをツアーした。そしてこれらのメンバーを中心に近未来的ロック・オペラジョーのガレージ』を制作して同年9月にAct I、11月にAct II & IIIを発表した。当時勃興していたパンクニュー・ウェイヴに近い音楽性を示した『シーク・ヤブーティ』と、ザッパ本人が「バイオニック・ファンク」と呼んだファンキーな側面を打ち出しつつレゲエ的短調や変拍子・ポリリズムをふんだんに多用した『ジョーのガレージ』の2作は、彼の80年代以降の音楽性を予期させるものであり、今日では代表作の中に含まれることも多い。だがバンドを巡るいざこざが再び起こり、新作は再び2年後の1981年の『ティンゼル・タウン・リベリオン』まで待たねばならなかった。

1980年は、3月から7月までホワイト、ウィリス、バロウ、マーズ、デビッド・ロッグマン[81][82](ドラムス)と国内、カナダ、ヨーロッパをツアー。10月から12月まではロッグマンに代えてカリウタ、さらにスティーヴ・ヴァイ[83](ギター)、ボブ・ハリス[84](キーボード、トランペット、ボーカル)を迎えて国内とカナダをツアーした。1981年にはレーベル「Barking Pumpkin Records」を設立して、5月に第一弾のアルバム『ティンゼル・タウン・リベリオン』を発表。このアルバムにはザッパの採譜係だったヴァイが成人したのを機にライヴ・デビューを果たした前年10月から12月までのツアーからの音源も収録されており、彼の実質的なデビュー作としても知られる。これ以降、ザッパは毎年のツアー録音を中心とした膨大な量の音源を再編集して作品化する手法にさらに磨きをかけ、年平均2?3作という旺盛なアルバムリリースを継続していった。

同年、ライヴ演奏のギターソロのみを集めた、ほぼ全編インプロヴィゼーションである『黙ってギターを弾いてくれ』が生み出された。このアルバムは様々な音源を題材としたが、実質的にはザッパとカリウタが生み出す超絶的なポリリズムの作品であると言えよう。ヴァイは本作のギター・ソロを正確に採譜するという仕事を任され、エフェクターやノイズまでを採譜しきった難業を成し遂げて、最終的に「The Frank Zappa Guitar Book」[85]の出版をもたらした。

1981年9月、ホワイト、ヴァイ、マーズ、マン、スコット・チュニス(英語版)[86](ベース・ギター)、チャド・ワッカーマン[87](ドラムス)、ロバート・マーティン(英語版)[88](キーボード、テナー・サクソフォーン、ボーカル)と、12月まで国内とカナダ、翌1982年5月から7月までヨーロッパをツアーした。この顔ぶれを中心に制作された『たどり着くのが遅すぎて溺れる魔女を救えなかった船』が5月、『ザ・マン・フロム・ユートピア』が翌1983年3月に発表された。以後、チュニスとワッカーマンはザッパの活動の終点近くまで、彼のバンドのボトムを支えることとなった。

1984年7月から9月上旬まで、ザッパはウィリス、ホワイト、チュニス、ワッカーマン、マーティン、アラン・ザヴオッド(英語版)[89](キーボード)、元MOIのナポレオン・マーフィー・ブロック(テナー・サクソフォーン、ボーカル)と国内とカナダをツアー。ブロックは一か月で離脱したが、残りのメンバーは引き続いて一か月間のヨーロッパ・ツアーを行なったのち、10月から12月まで再び国内とカナダをツアーした。その模様の一部は1986年に『ダズ・ヒューモア・ビロング・イン・ミュージック?』として発表された。ザッパは「ライヴでやれることはすべてやりつくした」ことを理由に、それまでほぼ毎年行ってきた全米を中心としたツアーからの引退を表明した。

一方、1983年と1984年にはザッパのキャリア上重要な転換点となる2つの作品がリリースされた。1983年発表の『London Symphony Orchestra Vol. I』[注釈 61]は、指揮者にケント・ナガノを迎えたロンドン交響楽団の演奏を収録したアルバムで、ザッパにとって初のフル・オーケストラによる自作録音であり、本格的なデジタル・レコーディングを駆使した作品であった。デジタル・レコーディング技術の導入によって、録音後の編集作業は大いに簡便になった。1984年発表の『ザ・パーフェクト・ストレンジャー』は、ピエール・ブーレーズの指揮によるアンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏[注釈 62]で、ザッパと現代音楽の接点の中でも最大のものと言える。本作は収録曲の半数以上がシンクラヴィアによるものであり、「初めてシンクラヴィアによる演奏が収録されたアルバム」という意義が大きい。加えて1984年には賛否両論を招いた実験作『Thing-Fish』(1984年)と『Francesco Zappa』も発表された。『Thing-Fish』は大幅にアレンジされた既発曲も含まれた3枚組の大作ロック・オペラであるが、『ジョーのガレージ』以上に台詞に力点が置かれた結果、非英語圏の聴き手には難解な作品となった。『Francesco Zappa』は18世紀の作曲家フランチェスコ・ザッパの作品をシンクラヴィアで演奏したもので、シンクラヴィアのための習作をユーモアに包む形で発表した作品という解釈が一部でなされた。。

1985年9月、検閲委員会(PMRC)が開催を推進してアメリカ上院議会に於いて開かれた意見公聴会に反対側の参考人として招かれ、委員の前で導入前の検閲制度を批判した[注釈 63][90]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:248 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef