フランク・ザッパ
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1973年2月、ザッパはアンダーウッド夫妻、デューク、ジャン=リュック・ポンティ[注釈 44][61](ヴァイオリン)、ラルフ・ハンフリー[注釈 45][62][63](ドラムス)、ファウラーと彼の弟のトム・ファウラー(英語版)[57]ベース)らと新しいMOIを結成して7か月間に及ぶ国内、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパのツアーを行なった。そして9月にジャズ・ロック路線とブラックミュージックへの傾倒をミックスした『オーヴァーナイト・センセーション』を発表。その後も勢いは衰えを見せず、精力的なライブ活動の合間を縫って、ジャズ・ロック期の代表作として記憶する人も多い『アポストロフィ (')[注釈 46](1974年)、高度な演奏テクニックに裏打ちされた「インカ・ローズ」などを収録した『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(1975年)などのアルバムを続々と発表した。このMOIは上記のメンバーに加え、チェスター・トンプソン[注釈 47][64](ドラムス)、ナポレオン・マーフィ・ブロック(英語版)[65](ボーカル、テナー・サクソフォーン、フルート)、デニー・ウォーリー(英語版)[66](ギター)などの錚々たる実力派ミュージシャンの新メンバーにも支えられた。

1975年4月と5月、MOIはトンプソンに代わってテリー・ボジオ[注釈 48][67]を迎え、キャプテン・ビーフハートと共同名義の国内ツアーを行なった[注釈 49]。同年10月に発表されたザッパ/ビーフハート/マザーズ名義のライブ・アルバム『ボンゴ・フューリー[注釈 50]を最後に、ザッパは新作アルバムの名義にMOIの名前を使わなくなり[注釈 51]、全てをフランク・ザッパ名義にした。

1975年9月、ザッパはボジオ、エストラーダ、ブロック、アンドレ・ルイス(英語版)[68][68](キーボード、ボーカル)と5人編成のMOIを結成。彼等は時にはゲスト・ミュージシャンを迎えながら、1976年3月までコンサート活動を行なった。この5人の活動を最後に、彼はライブ活動でもMOIの名前を使わなくなり、コンサートも全てフランク・ザッパ名義にした。
ソロ

1976年10月、ザッパはボジオとの共同作業を軸にブロック、エストラーダを含む多数のメンバーを断片的に関与させて制作した『ズート・アリュアーズ』をフランク・ザッパ名義で発表した。同月、彼は正式名称をザッパ(以下、Zappa[注釈 52])とするバンド[69][注釈 53]を編成して、初のフランク・ザッパ名義のツアーを開始した。メンバーはボジオ(ドラムス、ボーカル)、元ロキシー・ミュージックエディ・ジョブソン(ヴァイオリン、キーボード)、パトリック・オハーン(英語版)[70](ベース・ギター)、レイ・ホワイト(英語版)[71](ボーカル、ギター)、ビアンカ・ソーントン(英語版)[72](キーボード、ボーカル)で、MOI最後のツアーに引き続いて参加したボジオ以外は新顔であった[注釈 54][注釈 55]。彼等は10月と11月に国内ツアー[注釈 56]、翌1977年1月と2月にはヨーロッパ・ツアーを行なった。また1976年12月にはブレッカー・ブラザーズ[注釈 57]をはじめとするホーン・プレイヤーと元MOIのルース・アンダーウッド(パーカッション)らを迎えて、26日から29日までニューヨークのパラディアム・シアターでコンサートを開いた。その音源は1978年に『ザッパ・イン・ニューヨーク』として発表された[注釈 58]

1977年半ばに、自身のレーベル「ザッパ・レコード」を設立。ボジオ、オハーン、エイドリアン・ブリュー[73](ギター、ボーカル)、トミー・マーズ(英語版)[74](キーボード、ボーカル)、ピーター・ウルフ(英語版)[注釈 59][75](キーボード)、エド・マン[76](パーカッション)と、9月から11月まで国内ツアー、ロサンゼルスでの大晦日のコンサート、翌1978年1月から2月までヨーロッパ・ツアーを行なった。そして3月にザッパ・レコードの第1弾アルバムとして、主にヨーロッパ・ツアーで録音された音源にスタジオでオーバー・ダビングを施したものを中心に収録した『シーク・ヤブーティ[注釈 60]を発表した。続いて8月下旬から10月まで、マーズ、ウルフ、マン、アイク・ウィルス(英語版)[77](ギター、ボーカル)、アーサー・バロウ(英語版)[78](ベース・ギター)、ヴィニー・カリウタ[79](ドラムス)、元MOIのデニー・ウォーリー(ギター)らの新編成で国内とヨーロッパをツアー。翌1979年にはさらにウォーレン・ククルロ(英語版)[80](ギター)を迎えて2月から4月までヨーロッパをツアーした。そしてこれらのメンバーを中心に近未来的ロック・オペラジョーのガレージ』を制作して同年9月にAct I、11月にAct II & IIIを発表した。当時勃興していたパンクニュー・ウェイヴに近い音楽性を示した『シーク・ヤブーティ』と、ザッパ本人が「バイオニック・ファンク」と呼んだファンキーな側面を打ち出しつつレゲエ的短調や変拍子・ポリリズムをふんだんに多用した『ジョーのガレージ』の2作は、彼の80年代以降の音楽性を予期させるものであり、今日では代表作の中に含まれることも多い。だがバンドを巡るいざこざが再び起こり、新作は再び2年後の1981年の『ティンゼル・タウン・リベリオン』まで待たねばならなかった。

1980年は、3月から7月までホワイト、ウィリス、バロウ、マーズ、デビッド・ロッグマン[81][82](ドラムス)と国内、カナダ、ヨーロッパをツアー。10月から12月まではロッグマンに代えてカリウタ、さらにスティーヴ・ヴァイ[83](ギター)、ボブ・ハリス[84](キーボード、トランペット、ボーカル)を迎えて国内とカナダをツアーした。


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