1975年4月と5月、MOIはトンプソンに代わってテリー・ボジオ[注釈 48][67]を迎え、キャプテン・ビーフハートと共同名義の国内ツアーを行なった[注釈 49]。同年10月に発表されたザッパ/ビーフハート/マザーズ名義のライブ・アルバム『ボンゴ・フューリー』[注釈 50]を最後に、ザッパは新作アルバムの名義にMOIの名前を使わなくなり[注釈 51]、全てをフランク・ザッパ名義にした。
1975年9月、ザッパはボジオ、エストラーダ、ブロック、アンドレ・ルイス(英語版)[68][68](キーボード、ボーカル)と5人編成のMOIを結成。彼等は時にはゲスト・ミュージシャンを迎えながら、1976年3月までコンサート活動を行なった。この5人の活動を最後に、彼はライブ活動でもMOIの名前を使わなくなり、コンサートも全てフランク・ザッパ名義にした。 1976年10月、ザッパはボジオとの共同作業を軸にブロック、エストラーダを含む多数のメンバーを断片的に関与させて制作した『ズート・アリュアーズ』をフランク・ザッパ名義で発表した。同月、彼は正式名称をザッパ(以下、Zappa[注釈 52])とするバンド[69][注釈 53]を編成して、初のフランク・ザッパ名義のツアーを開始した。メンバーはボジオ(ドラムス、ボーカル)、元ロキシー・ミュージックのエディ・ジョブソン(ヴァイオリン、キーボード)、パトリック・オハーン
ソロ
1977年半ばに、自身のレーベル「ザッパ・レコード」を設立。ボジオ、オハーン、エイドリアン・ブリュー[73](ギター、ボーカル)、トミー・マーズ(英語版)[74](キーボード、ボーカル)、ピーター・ウルフ(英語版)[注釈 59][75](キーボード)、エド・マン[76](パーカッション)と、9月から11月まで国内ツアー、ロサンゼルスでの大晦日のコンサート、翌1978年1月から2月までヨーロッパ・ツアーを行なった。そして3月にザッパ・レコードの第1弾アルバムとして、主にヨーロッパ・ツアーで録音された音源にスタジオでオーバー・ダビングを施したものを中心に収録した『シーク・ヤブーティ』[注釈 60]を発表した。続いて8月下旬から10月まで、マーズ、ウルフ、マン、アイク・ウィルス(英語版)[77](ギター、ボーカル)、アーサー・バロウ(英語版)[78](ベース・ギター)、ヴィニー・カリウタ[79](ドラムス)、元MOIのデニー・ウォーリー(ギター)らの新編成で国内とヨーロッパをツアー。翌1979年にはさらにウォーレン・ククルロ(英語版)[80](ギター)を迎えて2月から4月までヨーロッパをツアーした。そしてこれらのメンバーを中心に近未来的ロック・オペラ『ジョーのガレージ』を制作して同年9月にAct I、11月にAct II & IIIを発表した。当時勃興していたパンク・ニュー・ウェイヴに近い音楽性を示した『シーク・ヤブーティ』と、ザッパ本人が「バイオニック・ファンク」と呼んだファンキーな側面を打ち出しつつレゲエ的短調や変拍子・ポリリズムをふんだんに多用した『ジョーのガレージ』の2作は、彼の80年代以降の音楽性を予期させるものであり、今日では代表作の中に含まれることも多い。だがバンドを巡るいざこざが再び起こり、新作は再び2年後の1981年の『ティンゼル・タウン・リベリオン』まで待たねばならなかった。
1980年は、3月から7月までホワイト、ウィリス、バロウ、マーズ、デビッド・ロッグマン[81][82](ドラムス)と国内、カナダ、ヨーロッパをツアー。10月から12月まではロッグマンに代えてカリウタ、さらにスティーヴ・ヴァイ[83](ギター)、ボブ・ハリス[84](キーボード、トランペット、ボーカル)を迎えて国内とカナダをツアーした。