フランク・ザッパ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 初期のアルバムには「フランシス・ヴィンセント・ザッパ」と記されていたが、これはザッパ本人の思い違いが生んだ誤りである。『フランク・ザッパ自伝 (The Real Frank Zappa Book)』によると、彼は20歳代半ばまで、自分の名前は父親と同じフランシス・ヴィンセントだと思い込み、フランシスという名前をどうしても好きになれずに愛称だと思っていたフランクをやむなく使っていたつもりだった。そして1967年9月下旬の初のヨーロッパ・ツアーの為にパスポートを取得しなければならなくなったので母親から出生証明書を送ってもらった時、自分の名前がフランク・ヴィンセントであることを初めて知った。彼はそのことを喜び、初期のアルバムにフランシスの名を使ってしまったことを悔やんで、それらのアルバムの再発版には正しい名前を記載した。しかし、アルバム・ジャケットにそう書かれていたから、という理由で彼の名はフランシスであると主張する者は現在でも多い。
^ フランク・ヴィンセント、チャールズ・ロバート(Charles Robert Zappa、1943年 - 2018年)、カール・ルイス(Carl Lewis Zappa、1948年 - 2020年)、パトリス・ジョアン(Patrice JoAnne Zappa、1951年 -)の3男1女。
^ エッジウッドにはアメリカ陸軍の化学兵器の保存施設があった。
^ ザッパは自伝で、陸軍は第二次世界大戦中に毒ガス兵器を開発しており、兵器を実戦で使う時に風向きなどの天候状態を考慮に入れる必要があったので、気象学者を雇ったのだろうと推測している。
^ フランシスは研究室からビーカーやフラスコ、さらには水銀が入ったペトリ皿まで持って帰って子供たちに与え、ザッパは寝室の床一面にそれらを並べて遊んでいた。官舎から1マイルと離れていない所にマスタードガスのタンクがあったので、官舎の住民には家に家族全員分のガスマスクを常備する義務があった。
^ ザッパはワトソンが1955年に発表したアール・キングの'Those Lonely, Lonely Nights'のカバーで披露したギター・ソロに大きな影響を受け、この曲を1969年と1975年のコンサートで取り上げた。ワトソンは『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(1975年)、『ゼム・オア・アス』(1984年)、『Thing-Fish』(1984年)、『ミーツ・ザ・マザーズ・オブ・プリヴェンション』(1986年)に客演した。
^ ザッパの自伝での綴りに準拠。
^ ザ・ブラック‐アウツのメンバーは、ザッパ、Johnny Franklin、Carter Franklin、Wayne Lyles、Salazar兄弟、Terry Wimberly。彼等は黒人やメキシコ人を含んだ多彩な顔触れであった。
^ 後のキャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ヴリートである。
^ サンディエゴ近郊のエルカホンに住んでいた時に、有名なレコード販売店のサム・グッディについての雑誌記事に「サム・グッデイは『イオ二ザシオン』というドラムスだけのひどいアルバムすら売っている」とあるのを読んで。そのアルバムに興味を抱いた。後日、R&Bのレコードも取り扱っているHi-Fiの販売店に行った時に、奇怪な容貌の男性の白黒写真をジャケットにしたアルバムを見つけて手に取ると、まさに『イオ二ザシオン』という題の曲が収録されていた。価格は$5.95で、手持ちの現金は$3.75だったが、このレコードを欲しいけれど$3.75しか持っていないと店員に言うと、「Hi-Fiの試聴用に店頭に置いているけれど、このレコードを使うと誰もHi-Fiを買わないから$3.75で売ってあげる」と言われて購入できた。
^ ザッパは15歳の誕生日に母親にねだって、プレゼントの資金の5ドルを使ってヴァレーズの自宅に長距離電話をかけた。彼は、こんな人相("looked like a mad scientist")の人物はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに住んでいるに違いないと考えて、ニューヨーク市に電話してエドガー・ヴァレーズという人物の電話番号が存在するか尋ねると、電話番号はおろか住所まで教えてもらえたという。早速その番号にかけてみると、電話に出た夫人に、ヴァレーズは万国博覧会の為の作品(『ポエム・エレクトロニク』)の制作の為にブリュッセルにいるので数週間後にかけなおすように、と言われた。そこで、数週間後に再び電話して、ヴァレーズと会話を交わした。モハーヴェ砂漠ランカスターに住んでいたザッパは、ヴァレーズが'Deserts'という新曲に取り組んでいることを知って、大いに感激したという。
^ 彼がロサンゼルスに転居したので、ザ・ブラック‐アウツの活動は終わりを迎えた。
^ 'Theme From Run Home Slow'が未発表音源集The Lost Episodes(1996年)とMystery Disc(1998年)に収録された。両者には幾つかの違いがある。
^ "The World's Greatest Sinner"は"Run Home Slow"よりも前に公開されたが、ザッパは"The Real Frank Zappa Book"で、"Run Home Slow"の音楽担当が自分の初の映画音楽の仕事だったと記している。
^ ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのアルバム『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』(1968年)に収録された'Deseri'をメンバーのレイ・コリンズと共作した。
^ 録音はハリウッドで行なわれて、ザッパとコリンズは参加していない。
^ その初日のパーティーで録音された音源をコラージュにしたものが'Opening Night at "Studio Z" (Collage)'として、Mystery Disc(1999年)に収録された。
^ 日曜日のテレビ番組の一つで様々な実験を取り上げて放送していたCBS Repertoire Workshopの番組プロデューサーだった。
^ 日本のグループ・サウンズのバンドであったザ・タイガースが、ザッパ以外のメンバーはパーティーでマリファナを吸っていたと証言している。
^ 60年代末から70年代に入ると、マザーズ、ザッパ・アンド・マザーズ、ザッパ/マザーズ、フランク・ザッパ・アンド・ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションなど様々な名前が用いられるようになった。本ページでは、本来の名前であるザ・マザーズ・オブ・インヴェンションに統一して、その略語であるMOIを用いる。因みに自伝The Real Frank Zappa Book. (Touchstone. ISBN 0-671-70572-5)ではthe M.O.I.という略語が使われている。
^ ドゥーワップ・アルバム『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』まで制作している
^ リチャード・ベリーが作詞作曲したロックンロールの楽曲。キングスメンのバージョン(1963年)が大ヒットした。1960年代に生まれたガレージロックの代表作の一つ。
^ 同じ会社に所属していたヴェルヴェット・アンダーグラウンドも似た境遇にあった。
^ これらの会社は、1973年に「ディスクリート・レコード」にとって代わられた。「ディスクリート・レコード」は、ザッパ、マザーズ、ティム・バックリィテッド・ニュージェント&アンボイ・デュークスらの作品を発表した。さらにザッパは、1977年に「ザッパ・レコード」、1981年に「バーキング・パンプキン・レコード」を設立した。
^ リード・ボーカリストの名前であると同時にバンド名でもあった。ストレイト・レコードから2作のアルバムを発表した後、1970年代にワーナー・ブラザーズから「スクールズ・アウト」「アリスは大統領」などのヒット曲を発表した。
^ 二人はカリフォルニア州ランカスターのアンテロープ・バレー・ハイ・スクールの同級生。キャプテン・ビーフハートとは、ザッパが1964年にヴァン・ヴリートと共同で制作していた低予算のSF映画Captain Beefheart vs. The Grunt Peopleの登場人物名である。
^ ピンク・フロイドザ・ナイスイエスソフト・マシーンキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドなどが出演。
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:246 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef