フランク・コンラッド
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この中継のためにコンラッドは250Wの真空管4本パラレルの波長80-91m(周波数3.3-3.75MHz)自励発振器を組み立て、AM変調器には同じ250Wの真空管5本を使った[34]

1922年9月1日、ウェスティングハウス電気製造会社を名義人とする新しい実験局8XS[35][注釈 23]の、送信機の試験調整がはじまった。工場の屋上に太い銅管式の垂直型アンテナを建てて約800Wをアンテナに供給できた。周波数安定度が一番の課題であり、工場の製造ラインとは別に専用電源を設け、さらに周囲の振動を吸収するスプリング付き架台に送信機を載せるなどの苦労があった[34]

1922年10月27日の20時から2時間、KDKAの音声ラインを分岐して、短波中継機8XSに流し込んだ。これがKDKAの番組音声を実際に短波で送り出した最初である。

しかし想定外に変調音が歪んでしまい、その対策に悩まされ続けた。この伝搬試験は1923年1月まで続けられ、昼間は波長80m(3.75MHz)が、夜間になると波長91m(3.3MHz)の方が良好であることが分かってきた[36]
8XSによるクリーブランドへの短波中継「KDKA-KDPM-WBZ 短波中継回線」 KDKAから3MHz帯の短波でKDPMとWBZへ送られた。(1923)

工場の屋上に立てた実験局8XS(短波中継機)の銅管式垂直アンテナは接地がうまく機能しておらず、工場内の人や機械の動きがアンテナの共振周波数を揺らがせていることが分かった。そこで12m長のゲージ型ワイヤーを平行に2条渡し、その7m下にも同型のものをカウンターポイズとして張り、両者を結ぶ7mの垂直エレメント部の中央から給電する方法とっている。またクリーブランドに中波放送局KDPMを建設中だったが、短波の受信アンテナが風で揺れて、受信レベルに強弱が付くのを防ぐため、室内に一辺2.4mの大型ループアンテナを設置した[37]

1923年3月4日、8XSによるピッツバーグKDKAからクリーブランドKDPMへの短波中継の実用化試験放送が始まった[38]。なおウェスティングハウス電気製造会社は後述するヘイスティングスKFKXへの中継を「短波中継の実用第一号」としているが、クリーブランドの住民は今まで聞こえなかったKDKAの番組が短波中継により地元KDPMで聞けることを大歓迎している。その意味において、1923年3月4日を「短波中継の実用化の日」と捉えることもできるだろう。

8XSの短波は、遠く640km離れたマサチューセッツ州スプリングフィールドの系列局WBZでも良好に受かったため、そちらへも不定期に中継放送が行われている[39]。東海岸(大西洋)に近いスプリングフィールドWBZは、KDKAからクリーブランドKDPMまでの距離のおよそ3.5倍あった。

コンラッドは全米20都市のアマチュア無線家や受信マニアらに8XSの受信試験を依頼したところ、全員から大変良好と報告が来たため、短波が番組中継に使えることを確信した[40]
大西洋を横断する短波中継計画

1922年5月16日、英国でラジオの試験放送を開始したメトロポリタン・ヴィッカーズ電気会社は元英国ウェスティングハウス電気製造会社である。英国ではマルコーニ科学機器会社のライトル2MTが1922年2月14日に[41]、ロンドン2LOが同年5月11日に定時放送を初めており[42]、メトロポリタン・ヴィッカーズ電気会社のマンチェスター2ZYによる試験放送が5月16日に続いた[43]

1922年夏、メトロポリタン・ヴィッカーズ電気会社のフレミング(A.P.M. Fleming)は放送技術のノウハウを相談するため、元・親会社であるウェスティングハウス電機製造会社を訪ねた。その際に8XSによる短波中継計画の話を聞いたフレミングは、経験豊かなKDKAの番組をマンチェスター2ZYへ短波中継する事を願ったが、まだこの時点では夢物語だった[44]

1922年10月18日、英国郵政庁GPOの調停で、英国放送会社BBC(British Broadcasting Company)[注釈 24]が誕生。メトロポリタン・ヴィッカーズ電気会社のマンチェスター2ZYはマルコーニ科学機器社のロンドン2LOとともに、新会社BBCへ移管された。

1923年3月4日より始まったクリーブランドKDPMへの短波中継が順調に滑り出した頃、メトロポリタン・ヴィッカーズ電気会社はウェスティングハウス電機製造会社と技術提携を結び、「大西洋横断短波中継」に合意した[45]。そして8XSの短波中継波を英国で受信するために、マンチェスター郊外のチェシャー州アルトリンチャムに短波受信所を建設[45][46]すると同時に、受けたKDKAの番組を中波で再送信するために中波放送の実験局の開設準備を始めた。
8XSの短波が大西洋を横断

世界初の短波による大西洋横断はコンラッドの無線電話で達成された。

1923年9月、短波による大西洋横断試験が始まると、あっけないほど簡単に8XSの短波(周波数3MHz、終段電力1.5KW)がアルトリンチャム受信所で受かった[45][46][47][48]。これまでも深夜になるとアメリカの中波放送を英国で聞くことができたが、短波の方が早い時間帯から聞こえ始めて、さらに火花式無線局(長波)から受ける高調波妨害も遥かに少ないことに、メトロポリタン・ヴィッカーズ電気会社の無線技術者達は驚いた。

1923年10月、短波の6MHzまで動作する10kWの水冷式真空管を開発したコンラッドは、これを2本使った自励発振式送信機(周波数調整範囲:3.0-3.6MHz、空中線電力7KW)を完成させ試験送信を開始した。8XSの短波はさらに強力になり、アルトリンチャム受信所ではフェージングの影響が軽減したにも関わらず、明瞭度は非常に悪かった。やがて搬送波の周波数が変調信号に合わせて揺さぶられている[注釈 25]ことをつき止め、振動でインダクタンスが変化しないよう配慮した構造の発振コイルや、キャパシタンス変動の少ないコンデンサーを開発したり、送信機全体を載せるスプリング台座の改良などの作業に追われた[47][49][50]
賞と栄誉

モーリス・リーブマン記念メダル
(1925)

エジソン・メダル (1930)

ジョン・スコット・メダル (1933)

ランメ・メダル (1936)

脚注[脚注の使い方]
注釈^ Westinghouse Electric & Manufacturing Co.
1945年にWestinghouse Electric Corporationに改名
^ のちに短波の開拓で競い合うことになるグリエルモ・マルコーニとは9日違いだった
^ NAAの信号を受信し、有線で配信するサービス。
^ ただし名義人はフランク・コンラッドだった
^ a b これは 「特別陸上局」 に大区分されるもので、アマチュア局とは別物
^ International Radio Telegraph Company
^ なお1897年から1899年にかけて、コンラッドはデイビスと連名で交流モーターや交流メーターに関する特許を複数登録している。
^ 地元デュケイン倶楽部での晩餐会からフーバー商務長官の挨拶を中継(1921年1月15日)
^ 地元デイビス劇場からルース・ロイの歌声中継(1921年3月10日)
^ ジョニー・レイ対ジョニー・ダンディーのボクシング(1921年4月11日)
^ 1922年に局数が増えたニューヨーク地区では833kHzの時間割を地元の全放送局で紳士協定せざるを得ない事態に発展した。
^ 同じ周波数で再送信すると、いわゆるマイクのハウリング現象のような状況が起きるため。
^ 文献上ではデッカー氏の1RDが第一次世界大戦後に短波で実験した最初のアマチュア局である。QST誌1923年3月号にコンラッドの短波実験に協力した件が報告されている。
^ この時代は「短波」が何kHz以上を指すかは決まっておらず、概ね1.5MHzあるいは2MHz以上を短波と呼ぶ例が多かった。


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