フランク・コンラッド
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コンラッドが無線電信に魅了されるきっかけとなったのは、このアーリントン海軍局NAAの受信機を組み立てたことだった[3][4][5]
軍需産業(無線)へ参入
実験局8XKによる実験

それまで無線には縁がなかったコンラッドだが、現場のたたき上げとして電気に関する知識を十分身に付けていたため、彼はこの分野でもめきめきと頭角を現した。無線分野への事業進出を念頭に、会社はコンラッドの無線実験には協力的だった。

1916年7月、電波を管理する商務省電波局より実験局8XKのライセンスを得た[注釈 4]。アマチュア無線局の場合、波長200mより長い電波(1,500kHzより低い周波数)を使うことが認められないため、コンラッドは波長制限を受けない実験局を選んだ。

米商務省電波局による呼出符号の指定基準局種コールサイン
アマチュア局地域番号+AA?WZ
実験局地域番号+XA?XZ
無線訓練学校局地域番号+YA?YZ
特別アマチュア局[注釈 5]地域番号+ZA?ZZ

コンラッドの実験局8XKは中波の波長450m(周波数670kHz)、長波の波長2000m(周波数150kHz)、および「波長Variable(可変)」が認められた。そしてピッツバーグのウィルキンスバーグにある自宅ガレージに20Wの送信機を設置し、8kmほど離れた会社の東ピッツバーグの工場に受信機を置いて無線実験を繰り返した[6]
軍用無線機の設計と製造

1914年に勃発した第一次世界大戦では中立の立場を取っていたアメリカだったが、1917年4月になり参戦した。ウェスティングハウス電気製造会社は軍へ真空管を供給するほか、アメリカ陸軍通信隊より移動用送信機75台(SCR-69型)と移動用受信機150台(SCR-70型)の設計と製造を受注した。商務省標準局より元陸軍信号隊の技術者ドナルド・G・リトルがこの設計を支援するためにウェスティングハウス社へ移籍してきた。コンラッドはこの時、真空管の使用法を完全にマスターした。SCR-69はリトルとコンラッドが、SCR-70はコンラッドが一人で担当し完成させた[7]。このほか同社では海軍より受信機(SE-1012A型、SE-1414型)の開発と製造を受注している[8]
民需への転換に失敗

戦争の終結が近くなり、会社は軍用無線機の需要が止まる前に、民需転換を模索した。そして有線を引けない場所での通信に着目し、大きな貿易港での港湾運送業務に売り込もうとした。業務連絡用の無線電話システムである。

ニューヨーク港港湾運送業を行っていたニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道タグボートハーレム川岸(ハーレム125丁目)にあったターミナル間で波長500m(周波数600kHz)の無線電話を試験した。しかし小型のタグボートには短いアンテナしか張れず、通信圏はせいぜい1マイル(1.6km)で、採用には至らなかった。この試験は完全に失敗だった[9]

次に同じ600kHzの無線機セットをニューヨークの玄関口ブルックリンにある国際無線電信会社[注釈 6]のブッシュ・ターミナルに設置し、もうひとつは毎晩ボストンへ向かうフォールリバー・ライン社の蒸気船に設置して試したが、このときには大きなアンテナを使えたため最大100マイル(160km)ほど連絡できた[9]。これは船舶局へニュース放送を行うことを目指したものだったが、船会社の賛同を得る事ができず頓挫してしまった[10]。コンラッドらの無線機開発チームは解散となり、メンバーは社内各所へ配置転換となった。
放送実験からKDKAの立ち上げまで
実験局8XKによる放送中波ラジオ[1,200kHz]の実験放送8XK(1920)

終戦で民間無線の戦時制限が解かれたため、コンラッドは1920年4月に実験局8XKの再許可を得た[11]。中波の波長250m(1200kHz)100W無線電話送信機を組み立てて定時送信を開始し、その受信を500km離れたボストン在住のJames C. Ramseyに依頼した[12]。まもなくコンラッドの定時送信はアマチュア無線家たちの間で評判となり、ついにアマチュア団体ARRLの機関紙QSTで紹介された[13]。同時に、この号の表紙写真にも採用されている。コンラッドはアマチュア無線家ではなかったが当時のアマチュア無線家は実験局(Xコール)、無線訓練学校局(Yコール)、特別アマチュア局[注釈 5](Zコール)とも自由に交信することが認められていたため、お互いの垣根意識は極めて低く、同じ無線実験仲間として交流していた。

アマチュア無線家のリスナーより受信報告や演奏曲のリクエストが続々と届くようになると、実験局8XKで放送する自前のレコードが足りなくなり、コンラッドは地元のハミルトン音楽店にレコードの貸し出しを交渉してみた。そして『いま掛けたレコードはハミルトン音楽店で販売しています』とアナウンスすることを条件に無償提供を受けることに成功した。コンラッドがアナウンスしたレコードと、そうでないものではレコード店の販売枚数に差がついたという[14]
デイビス副社長のひらめき

デイビス副社長(Harry P. Davis)は1891年に入社したウェスティングハウス電気製造会社の技術者で、1911年に技術担当副社長に抜擢された[注釈 7]。1920年9月29日、ピッツバーグの新聞The Pittsburgh PressやThe Pittsburgh Sunにあるジョセフ・ホーン百貨店の広告ページ”ホーン・デイリー・ニュース”に「Air Concert "Picked Up" By Radio Here」というタイトルの広告がのった。『木曜夜10時頃から20分ほど、ウィルキンズバーグのフランク・コンランドさんが無線で音楽コンサートを定期放送しています。当店ではこれを聴ける完成品受信機を10ドルからの価格で展示販売中です。 (西・地下売り場)』 (The Pittsburgh Press Sep.29,1920 p11[15]の広告文を日本語で要約したもの)

売出し中の受信機はウェスティングハウス電気製造会社の製品ではなかった。デイビス副社長はコンラッドが自宅から無線電話の定期放送をしていることは知っていたが、それが受信機の販売ビジネスにつながるとは考えてなかったため、この広告を見て驚いた。デイビス副社長はさっそくコンラッドら元無線機チームを召集して、良い音楽レコードを提供すれば蓄音機が売れるように、我々が良い番組を提供すれば受信機が売れるはずだと皆に説いた。これはコマーシャルによる広告放送モデルではなく、受信機を販売するためのソフトウェア(番組コンテンツ)の提供だった。

そしてデイビス副社長はコンラッドをはじめとする集められた一同に、11月2日に行われる合衆国大統領選挙において、ハーディング候補対コックス候補の開票速報が放送可能かを問うと、皆はできると断言した[16]。こうして放送用100W送信機の設計・製作に着手し、あわせて東ピッツバーグ工場の屋上に掘立て小屋のスタジオと送信アンテナの建設がはじまった。
ラジオKDKAの開局と番組開発

1920年11月2日の20時、世界初の商業ラジオ放送局といわれるKDKAが放送を開始した。ピッツバーグ・ポスト社から入ってくる開票数字を広報部のローゼンバーグが読み上げ、速報と速報の間はレコード音楽でつなぎながら、真夜中過ぎまで続いた。当日の技術面はドナルド・G・リトルが仕切り、コンラッドは緊急事態に備え自宅の予備機(8XK送信機)の前で待機していた。受信機が設置された教会や会社幹部宅に大勢の人が集まりこれを聴いた。放送は大成功だった[17][18]

KDKAは一般リスナーを増やすために、講演中継[注釈 8]、劇場中継[注釈 9]、スポーツ中継[注釈 10]など様々な番組開発を行った。また21:30の放送終了後、KDKAリスナーが時計の時刻を合わせられるように21:55-22:00の5分間、NAAのタイムシグナルを放送した。ある意味これが長波から中波への中継放送といえるかもしれない。またレコード演奏の放送ばかりだと、その音質は蓄音機で直接聴く方が良いため、ウェスティングハウス社従業員クラブの吹奏楽団による生演奏を織り交ぜることにした。さらに1921年12月から週刊番組ガイド誌の元祖である『Radio Broadcasting News 』を出版し、向こう1週間の放送予定番組とその聴きどころなどを紹介し、リスナーの拡大に努めた。

中でも大勢の人々の関心を集めた番組は、1921年1月2日の朝から始まった日曜礼拝中継で、この番組は「Church Services(礼拝)」と呼ばれた。


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